開削による遺跡の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 21:56 UTC 版)
1952年(昭和27年)から1959年(昭和34年)にかけて8年の工期を要した新樋越川の掘削では、砂丘の下から複数の古代の遺跡が発見された。 1954年(昭和29年)に発見された新樋越川河底遺跡は、縄文時代中期の遺跡とみられるが、重機による掘削作業中に砂中から多数の土器や石鏃が採取されたにとどまり、遺跡の範囲を確認するなどの発掘調査は行われていない。離湖と日本海を結ぶ低砂丘上に位置することから、旧時代の潟湖の存在や範囲を考察するうえで重要とみられている。 同じく1954年(昭和29年)に発見された宮の下遺跡は、新樋越川の海側河口付近の砂浜に位置する。約300点の押型土器の発見から縄文時代前期の遺跡とみられ、これは発見当時、京丹後市網野町で最古のものと推定された。発掘調査は、1955年(昭和30年)に地元の網野高校郷土史クラブらによって、1957年(昭和32年)に同志社大学文学部考古学教室によって行われている。この遺跡から発見された鏃に隠岐島産とみられるサヌカイトがあり、古代に西との海路が拓かれていた証左のひとつとみられる。出土遺物は網野高校から丹後郷土資料館に寄託保管され、現地は21世紀初頭においては砂浜となっている。 周辺地域は丹後地方有数の古墳や遺跡が集中するエリアのひとつで、約1キロメートル南西には日本海側で最大規模をほこる網野銚子山古墳がある。離湖には、離湖内の丘陵上に位置する離山遺跡、離湖古墳、離山古墳や、21世紀現在は離湖と陸続きとなっている付け根に位置する離遺跡、新樋越川の離湖側湖口に近接する岡古墳群などがあり、このうち横穴式石室が見つかった岡1号墳からは人骨6体と数多くの副葬品や、死者に肉を捧げたものとみられる大型草食動物の脚骨などが発見されている。
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