砂丘の下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:44 UTC 版)
北条砂丘の地層のイメージ 新砂丘II 新砂丘II-c 新砂丘II-b 新砂丘II-a 新砂丘I クロスナ ♯♯♯♯♯♯♯♯ 新砂丘I 火山灰 上部火山灰 キナコ火山灰 中部火山灰 ∴∵∴∵∴∵∴∵ 大山倉吉軽石 古砂丘 古砂丘II 古砂丘I(湯山層) ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ ラミナ 鮮新世火山岩 玄武岩 //////////////// 風化 北条砂丘の中央付近の南側斜面には露頭があり、砂丘をつくっている地層を観察することができる。ほかの各地の遺跡や地質調査などとあわせ、北条砂丘ができた過程をうかがい知ることができる。北条砂丘では約4.7-4.5万年前頃の大山の噴火と2万数千年前の姶良カルデラ火山による火山灰が数メートルの層を作っていて、この層を境に下の古い層を「古砂丘」、上の方を「新砂丘」と呼ぶ。古砂丘は少なくとも6万年以上前(更新世)に形成されたことがわかっている。 砂丘のずっと下には、鮮新世(約500-260万年前)の火山性の玄武岩があり、このあたりの基盤となっている。この玄武岩の上部は風化が進み、赤土となっており、長い間地表にあったことを示している。露頭がある場所では、かつてこの辺りが海だった時代にも、島のように海上に出ていたと考えられている。 風化した玄武岩の上に形成されている砂の層ではラミナと呼ばれる層構造が極めて発達していて、これはこの層が形成されていく過程でゆっくりと環境がかわっていったことを示している。12万年前ごろからリス氷期とよばれる氷期が終わり、気候が暖かくなって海水面が上昇を始めると、この玄武岩層は海岸、波打ち際、海の中へとだんだん沈んでいった。隆起によって発達した中国山地が、温暖な気候による降雨によって激しく侵食されて大量の砂が流されてきた。ラミナの発達は、ここが徐々に水に沈んでいき、砂の堆積が海水の中で起きたことを示唆している。こうした特徴をもつ古砂丘層を特に「古砂丘I」と呼んでいる。こうした地層は山陰の日本海岸で広くみられ、特に鳥取県の湯山(旧福部村)が代表的であることから「湯山層」とも呼ばれている。 リス氷期のあと温かい間氷期をはさんで、次のヴィルム氷期(最終氷期)は7万年前頃から始まった。海水面が低下して海岸線が後退していき、古砂丘も地表に現れたものと思われる。陸地化した砂丘では、風による飛砂が集まって砂丘の発達は顕著にすすみ、古砂丘Iのうえに分厚い砂の層が形成された。この層を「古砂丘II」と呼んでいる。この上にさらに5万年前頃の火山灰層が分厚く形成されていることから、古砂丘IIはおよそ6万年前までに出来上がっていたと推測されている。 古砂丘層上の火山灰層の分析によって砂丘の年代を知る手がかりになる。火山灰の層は2つに大別でき、2-3メートルの厚さを持つ下部の層は、約5万年前の大山の噴火によるもので、特徴的な黄色みを帯びた大山倉吉軽石(DKP)と呼ばれる軽石層がある。そのうえに2万数千年前の姶良カルデラ火山による火山灰(キナコ火山灰)の層が堆積している。これらの火山灰層によって、古砂丘を形成する砂は風や水で容易に動かないように固定化された。5万年前の大山火山灰と、2.5万年前の姶良火山灰のあいだにほとんど砂の層が無いことから、これらの間には砂が固定化されて砂丘が成長しなかったものと考えられている。 ヴィルム氷期がおよそ1.5万年前に終わると、気候は温暖になっていき、海水面は上昇を始めた。縄文時代に相当する1万年ほど前には数十メートルも上昇し、6000年前には現在よりも海水面が高かったが(縄文海進)、2000年から1800年前ごろまでに現在のように安定した。北条砂丘も海に沈んだ時期があると考えられている。海底でも、分厚い火山灰層に覆われた古砂丘はそのまま丘陵としての姿をとどめた。北条砂丘にはその頃形成されたとみられる海成円礫層がはさまっていて、その層には貝殻なども含まれている。 火山灰層のうえに新砂丘層が発達するが、砂丘の成長は約2000年前頃に一度止まったと考えられている。新砂丘は「新砂丘II」層と「新砂丘I」層に大別されていて、両者を隔てるのは「クロスナ」と呼ばれる層である。このクロスナ層は約2000-1800年前に形成された。場所によってはクロスナ層が複数の年代に見られることもあり、部分的には中世に草原があり、砂丘の発達が一様ではなかったことを示唆している。クロスナや遺跡・遺構の分布から、江戸時代以降に特に砂丘の発達が著しくなり、砂丘周りの環境が特に厳しくなったものと推定されている。 クロスナはもともと砂だったものに有機物が混ざって形成された土壌で、クロスナの存在はこの砂丘上が一時的に緑地だったことを示している。北条砂丘のクロスナ土壌はススキなどのイネ科植物由来の微細な珪酸体(オパール)を含んでおり、かつて砂丘上が草原になっていた証拠とみられている。縄文期か、弥生時代から中世のある時期まで、砂丘上は草地によって飛砂がおさまっており、ヒトの定住が可能だった。北条砂丘の東側にある羽合砂丘のクロスナ層からは、大規模な集落跡である長瀬高浜遺跡が発見されていて、古代から室町時代まで人が住んでいたことがわかっている。 層の厚さと年代の長さは比例しない。新砂丘II層はかなりの厚みがあり、長瀬高浜砂丘の場合には10メートルの厚さの新砂丘II層の下から発見された。そこではクロスナ層が2メートルほどの厚さがあった。この遺跡や出土品から、古墳時代から室町時代まで定住地が維持されてきたとわかっているが、それに比べると、新砂丘II層はそのあと数百年で10メートル以上堆積したことになる。これはその時期の天神川がそれだけ多くの砂を流したことを示しており、中世以降に上流で行なわれた鉄穴流しの影響もあるとみられている。
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