開削に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:54 UTC 版)
かつてこの地は火山(現在の十和田湖や八甲田連峰)の噴火で発生した火砕流などによってできた荒地で、その地質と夏場の強いやませと、八甲田おろしが吹き荒れる厳しい気候により"不毛の原野"と言われていた。「根元から三本に分かれた一本のシロタモの木」以外に目に触るものが無かったことから「三本木原」(南北10km、東西32km)と呼ばれたと伝えられている。当時この地で稲作を行う事は非常に難しく、たびたび襲う飢饉から安定的に住むことができない地域で、「三本木さ行ぐな」と言われる程であった。 盛岡藩の新渡戸傳はこれを見て稲作可能な地に変えようと水源となる人工河川の開削と、やませや八甲田おろしを防ぐ防風林の植樹、新町の建設などを計画する。この川は陸堰(地上を流れる水路)だけでは不可能で、上流に穴堰(今で言う、トンネル水路)2本を伴うものであった。十和田湖を水源とする奥入瀬川の、十和田市法量に設けられた取水口から、水路計画の終着点である太平洋岸までの全長は10里(約40km)にも及び、水を上げ新しい町を築く三本木原中心部(取水口からおよそ11km東の地点)付近を流れる奥入瀬川との高低差は30m、さらに前述した環境の厳しさもあって、難工事は当時より予想されていた。 1852年(嘉永5年)に三本木開拓の意見書が藩に提出され測量が開始される。1854年(安政元年)には建設開始に向けて有志が集まり始める。建設資金は八戸出身の蛇口伴蔵など多くの出資者を募って賄った。
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