開削の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:26 UTC 版)
井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦(久我山)の両豪族によって井の頭池から高井戸の区間が掘削され、更に高井戸から北沢用水として上北沢方面へ分水がされていた。『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀よりお6000両もしくは7500両が拠出された。 幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、同年4月4日に着工した。 羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど、浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが、同様に水喰土によって、もしくは岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」を立案した。 この第3案に従って工事を再開した。しかし工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところで幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は畑や家を売って費用に充てた。追加資金は3000両だった。着工から約7カ月後の1653年11月15日に羽村・四谷大木戸間を開通させた。そして1654年(承応3年)6月から江戸市中への通水が開始された。 庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。 なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。
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