水運と橋梁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 06:31 UTC 版)
筑後川は久留米藩(有馬家)、福岡藩(黒田家)、佐賀藩(鍋島家)、柳河藩(立花家)の四藩が境界を接しており、境界争いや水争いなどが頻発して相互の関係は険悪であった。このため藩領防衛の観点により架橋は厳禁とされ、代用交通として水運が発達した。1789年(寛政元年)に編集された「筑後上三郡取調手鑑」には既に19箇所の渡し場が登録されており、その後も増加を続け最盛期には62箇所の渡船場を数える程になった。 また筑後川両岸には天正年間に三潴郡住民である三郎左衛門が開発した大野島が次第に交通の要衝として重視され港湾が整備されるようになった。佐賀藩は現在の佐賀市諸富町に諸富港を築港し、藩の軍事拠点として活用された。また久留米藩は1751年(宝暦元年)に七代藩主・有馬頼徸(よりゆき)の命で三潴郡羽犬塚村(筑後市)の住民を移転させ若津港を築港、農産物を始めとする物資輸送の拠点とした。 若津港築港により発展したのが現在の大川市で、上流の豊後日田から船や筏でスギが運搬され、木材集積地となりは木材加工業が発達。現在でもタンスの主要生産地となっている。この他久留米藩・佐賀藩・柳河藩は筑後川や早津江川沿岸に川筋番所を設置して河川交通の取り締まりを行った。 明治以降も渡し場が続々増加したほか若津港が1922年(大正11年)、諸富港が1923年(大正12年)に内務省令によって指定港湾となった。また漁港も筑後川・早津江川分流点の直上流部より相次いで整備され、ノリやエツなどの漁業拠点として現在も12漁港が存在する。 陸運については1935年(昭和10年)に国鉄佐賀線筑後大川駅と諸富駅間に筑後川昇開橋が竣工し、船舶通過時には橋中央が上方に可動した。その後は筑後川の各所に道路橋が建設され、モータリゼーション発達に伴いその数は増加したが反面渡し船は時代の趨勢に取り残され、続々廃止されて行く。 また、ダムを始めとする河川開発も舟運にも影響を与え、日田から大川へスギを運搬した筏運は夜明ダムの完成で陸上輸送に取って代わった。国道整備などに伴う陸上輸送の発達と相まって渡し舟の衰退に拍車が掛かり、1994年(平成6年)の下田の渡しが廃止されたのを最後に筑後川における渡し舟は消滅した。しかし近年では水運に対する見直しの機運も高まり、筑後川の水運を復活させようという動きも見られている。 一方明治時代以降筑後川における橋梁の建設が盛んになった。当初は国鉄鹿児島本線や佐賀線、西鉄天神大牟田線の鉄道橋が建設され、道路橋は遅れて宮ノ陣橋が1924年(大正13年)に完成した。この宮ノ陣橋は1948年(昭和23年)頃まで西鉄甘木線と共用する道路・鉄道併設の橋梁であった。 これら明治・大正期に建設された橋梁は水害による流失など多様な理由でいずれも架け替えられた。特殊なものとしては先の水運の項で述べた筑後川昇開橋が存在するが1987年(昭和62年)佐賀線廃止の折、水運衰退も相まって撤去が検討された。しかし大川市・佐賀市の陳情によって存続が決まり、現在は一日8回中央部が昇降する歩行者専用橋として利用されている。
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