満洲協約と間島協約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「日清協約」も参照 日清関係については、小村は、新しく駐清公使に任じられた伊集院彦吉に対し、懸案事項の協議に入るよう命じ、パッケージ・ディールの方針を伝えたが、清国にとっては主権にかかわる問題として絶対に譲れない間島問題が含まれていたため、交渉は暗礁に乗り上げた。これには、1909年5月に小村自身が肋膜肺炎に罹り、一時は職務を遂行できないほど病状が悪化していたこととも深くかかわっていた。一時は清国側が紛争の常設仲裁裁判所への付託を提議し、日本側が強く反発する場面もあったが、最終的には間島協約と満洲協約(満洲五案件に関する日清協約)が1909年9月4日に締結されて当面の決着をみた。
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