満洲事変と蔣汪合作政権
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「満州事変」も参照 1931年(民国20年)9月18日、柳条湖事件を契機として満洲事変が起こると、汪は再び蔣政府と協力して日本に対峙する方針に転じた。蔣介石は急遽南昌から南京に帰り、汪兆銘らの広東臨時国民政府に対し、一致して国難に対処することを提唱し、妥協を申し入れた。その結果、9月28日から29日にかけて、南京政府は陳銘枢・張継・蔡元培、広東政府は汪兆銘と孫科が参加して香港で会議を開き、蔣介石が下野を声明すると同時に広東政府も独立を取り消すという通電を発し、そのうえで統一会議を開いて新たに統一政府を組織することで合意した。 1932年1月1日、孫科を行政院長とする南京国民政府が成立した。しかし、日本は中国に対し抗日団体の解散を要求し、それに対して抗日団体側は排日ボイコットのみならず対日国交断絶と宣戦を要求し、弱体な孫科内閣はそれを受けて対日断交と宣戦布告を敢行しようとした。アメリカ合衆国のヘンリー・スティムソン国務長官は、上海でのこうした動きを危惧し、対日断交に強く反対していた蔣介石の政権復帰を望んだ。より穏健な蔣介石の政権復帰を望む点では日本も同じであった。排日ボイコットに関しては、アメリカはこれを支持し、イギリスはむしろ日本を支持し、抑制すべきとの立場であった。 国内的には蔣介石派の抵抗・牽制により行政能力を失い、日米英いずれからも忌避された孫科政権は1か月足らずで瓦解した。孫科は1月23日に南京を去り、25日に上海で辞意を表明した。 南京国民政府中央政治会議は、1月28日、汪を後任の行政院長に選び、鉄道部長も兼ねさせた。外交部長には羅文幹、財政部長には孔祥熙が就任し、蔣介石は軍事責任者として復帰した。蔣汪合作政権の成立である。これは、蔣介石派が中心となり、それを汪兆銘派が緊密に協力するというかたちをとっており、汪は蔣介石には軍事をまかせ、みずからは政務を分担した。蔣汪合作政権はこの日より1935年11月の汪兆銘狙撃事件までつづくことになるが、皮肉なことに、この1月28日には上海で第一次上海事変が勃発したのだった。 蔣介石は、これに対し、「世界平和のために暴力を否定する」と宣言するとともに長期抵抗の方針を示し、対日交渉を開始すると同時に河南省洛陽への遷都を決定した。汪兆銘は1月31日に蔣介石の方針を支持する講話を発表し、遷都は、日本の暴力に屈したのではなく、有効な抵抗を図るためであると国民に説明した。同時に、日本との国交断絶には断固として反対しており、この方針を「一面抵抗、一面交渉」と表現した。上海事変の停戦協定は、蔣介石率いる第十九路軍が善戦したことと汪兆銘を中心とする交渉が順調に行われたことにより、中国側に有利にはたらき、結果として日本軍が撤退した。 2月15日、汪はあらためて「一面抵抗、一面交渉」と題する講演を行い、対日方針を全面的に開示し、断交などをともなう過激な徹底抗戦主義も、戦わないで降伏しようとする敗北主義もともに間違いであるとして、両論を批判した。汪兆銘の考え方は、抵抗の裏付けがあってはじめて交渉も有効にはたらくというものであり、その点から張学良の無抵抗主義に反対し、張が兵を挙げないならば彼への財政的援助も打ち切ると言明した。各省の省長が割拠して中央の指令にしたがわないようでは国家としてのまとまりがつかず、国内統一がなされていない状態では抵抗も交渉も成り立たないというのが汪の考えであった。この年の3月、汪は、事変調査のために南京をおとずれたリットン調査団の一行と面会している。 汪兆銘は以上のような考えから無抵抗政策を掲げる張学良に圧力をかけ、北平綏靖公署主任を辞めさせたが、このとき蔣介石は張に救いの手を差し伸べている。蔣は張の取り込みを図ったのであるが、汪はこの措置に憤慨した。宋子文の財政政策にも不満をいだいていた汪は、8月5日、行政院院長を辞任して、2か月後に病気療養として渡欧した。 1933年3月、汪は帰国して行政院院長に復職し、外交部長をも兼任して対日交渉にあたった。3月26日、汪と蔣介石は「剿共」(全力で共産党を滅ぼす)を決定し、「安内攘外(まずは共産勢力をおさえて国内の安定を確保してから、外国に抵抗し、対等に和平を話し合う)」の基本方針を確認した。 同年5月、汪は関東軍の熱河作戦にともなう塘沽停戦協定の締結にかかわった。実際に協定を締結したのは華北政権であったが、これは汪や孫科の承認のもとに結ばれたのである。この協定は、実質的に満洲国の存在を黙認する要素を含んでいたが、これは汪の唱える「一面抵抗、一面交渉」方針の現れでもあった。しかし、抗日派による汪兆銘批判はいっそう激しさを増していった。1933年5月1日、汪兆銘は抗日の方が反共よりも重要であるという見方を批判し、もし、共産匪賊が勢いをえて長江流域まで侵してきたなら、いずれ中国は列強各国の管理下におかれ、日本による侵略よりもいっそう悲惨なことになるだろうと述べた。
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