日露戦争への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「日露戦争」も参照 日英同盟が締結される前の1902年1月20日、小村外相は栗野慎一郎駐露公使に対し、将来の日露協商に向けた予備交渉を訓令した。イギリスの警告によってダブル·ディーリングは放棄したものの、日英同盟交渉と日露協商予備交渉を並行して進めるのは政府の既定方針だったからである。逆に、日英同盟の調印は日本の立場を強め、日露協商締結の機会をもたらすことさえ期待された。事実、ロシアは清国と満洲還付条約を結んで、満洲からの撤退を決めたのであり、小村はこれをロシア政府内での穏健派勢力の回復ととらえていたのである。 1902年7月7日、小村は栗野公使に対し、清国と韓国における日露の勢力範囲を定める新たな日露協商を締結するための秘密交渉を打診するよう指示した。栗野は一個人の資格で7月23日と9月14日の2回、ラムスドルフと会談の機会を得た。小村は11月1日、協商の骨子として5条から成る案を内示したが、実は栗野が9月時点で独自の協商私案をロシア側に提出していた。栗野の案は小村の案に比べるとロシア側に譲歩したものであったが、小村は出してしまった栗野案を撤回させることはせず、ロシア側の出方を待つ一方、以後、独断での妥協をおこなわないよう命じた。ロシアではこののち1903年2月7日、会議が開かれ、栗野案を受け入れる方向性が示されたが、協商を結びたがっていることを日本側に悟らせないために、次の日本側提案を待った。一方の栗野は先年の9月以来、ずっとロシア政府からの回答がないことを悲観し、彼自身も交渉再開を希望しなかったので、この交渉は自然に立ち消えとなった。実らなかったものの、この時期の小村が日露関係の改善を望んでいたことは間違いない。 ところが、ロシアは満洲還付条約に定められた1903年4月8日の第二次撤兵期限を守らず、逆に増派したうえで7箇条の撤兵条件を清国にせまったことにより、事態が急変する。日本国民の反ロシア感情は急速に高まり、軍部が警戒感をいだいて、龍岩浦事件がそれに拍車をかけた。 4月21日、京都の無鄰菴(山縣別邸)に伊藤·山縣·桂·小村の4人が集まり、「日本に有利な満韓交換」を最終的に提議し、最低でも「対等な満韓交換」という交渉方針、言い換えれば「朝鮮は如何なる困難に逢着するとも断じて手離さざる事」をロシアに認めさせる方針を確認し、元老·内閣の意思統一を図った。ここに至っても小村には開戦の意思はなかった。しかし、撤兵の違約から2か月以上経過しても事態がいっこうに進展しなかったことを心配した明治天皇は、6月20日、桂と小村に対して御前会議の召集を命じた。 1903年6月23日、これを受けて御前会議が開催された。内閣からは桂、小村、山本権兵衛海相、寺内正毅陸相、元老からは伊藤、山縣、井上、松方、大山巌が参加した。この御前会議で小村は「対露交渉に関する件」と題する4点から成る意見書を提出した。その基本は、あらためて韓国が日本の安全保障にとってきわめて重要であるとの認識に立つものであり、井上が若干の異議を呈しただけで終始小村の意見が会議をリードし、「日本に有利な満韓交換」をめざし、最終的に譲歩するとしても「対等な満韓交換」をくずさないという小村意見書をもとに日露協商案要領が策定された。この決定にもとづき、7月28日、小村は栗野にロシアとの交渉を再開するよう訓令を送り、栗野は8月5日、このことをロシア側に報告し、8月12日、栗野はロシア側へ交渉基礎案を提出して日露交渉が再び開始された。 8月に始まった日露交渉は、9月7日、場所を東京に移して小村と駐日ロシア公使ロマン・ローゼンが全権委員に選ばれた。9月末から10月にかけて小村とローゼンは4度にわたって会談を開いたが、ローゼンは、満洲問題は露清二国間関係の事案であるとして日本の介入を決して許さない一方、韓国問題についてはロシアの権利を主張するので、満韓交換という線で事態を打開させたい小村とはかみ合わず、議論は平行線をたどるばかりであった。ローゼンはまた、新たに大韓帝国における北緯39度以北を中立地帯とする提案もおこない、小村を驚かせている。会談によってむしろ日露双方の対立点は明瞭になった。 交渉開始前の8月時点ではロシア側も開戦の意思はなかったが、10月にはむしろ日本との対決も辞さずという強硬なものとなっていた。これは、ロシア側からすれば日本案が協商準備交渉での日本案とくらべても敵対的とみられたからでもあった。当初はロシアに宥和的な栗野案だっただけに強硬な小村案に対するロシア側の怒りも募っていたのであり、日本との対立を極力避けようとしてきたセルゲイ・ウィッテが蔵相を解任されていたことも少なからず影響していた。10月30日には小村がローゼンにロシアの修正案への対案を提出したが、その内容は、日本が韓国に対し依然として軍事上の助言・指導をおこなうとしながらも軍事施設は設けないこと、中立地帯は韓国・満洲国境の両側に設定することなど、ロシアに対して相当に妥協したものであった。12月11日、ロシア側の回答が寄せられたが、北緯39度以北の中立地帯の件や日本の韓国での「優越なる利益」も民政上に限るなど、10月提出のロシア案と大きな変更はなく、返事も遅かったこともあって日本側を失望させた。実は、ロシア側は満洲が日本の利益範囲内であることをわずかに認める譲歩を行っており、それにイギリスが気づいて日本に指摘したのだったが、日本はこれを重視しなかった。12月20日、小村らは交渉そのものが無意味ではないかと考えるようになっており、伊藤博文でさえ開戦を意識するようになっていた。12月23日、ロシアに再考を促す日本案が提出されたが、1904年1月6日のロシア側回答は前回とほぼ変わらなかった。 ここに至って小村は交渉による解決の望みを完全に捨て、海軍の準備が整い次第、正式な交渉断絶を経て対露開戦すべしとの意見書を提出し、これは1月12日の元老会議・御前会議に原案とされたが、結局、小村起草の修正案が決定された。これを受けて小村は1月16日、韓国全土を日本の勢力圏に置く提案を行い、他の参加者の賛意を得た。伊藤博文と山縣有朋はこの席で、韓国へ2個師団程度を派遣して高宗の身柄を確保し、そのうえで日露交渉を継続して満韓交換を実現していく案を示したが、桂・小村・山本海相は、韓国出兵は戦争につながり、しかも宣戦布告前の韓国占領は列国の支持を失い、なおかつ、日本が制海権を得ていないために危険な策であるとして反対した。これについては、内閣側の主張が通った。2月3日、ロシア旅順艦隊が出港したとの情報が芝罘領事からもたらされた。小村は2月4日の御前会議で他の閣僚や元老とともに対露開戦を決定、5日は動員が下され、2月10日には宣戦布告が発せられた。
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