日露戦争中の買収劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
前述のように日露関係が緊迫化していく中、1903年(明治36年)、海軍は本格的に大嶺炭田の買収交渉に乗り出すことになった。翌1904年(明治37年)2月、日露戦争が開戦となった。同年4月、日露戦争下の緊迫した情勢下、海軍大臣の山本権兵衛は日露戦争開戦という情勢を踏まえ、海軍直営で練炭製造を行う件について閣議に諮り、了承を得た。海軍省は海軍練炭製造所設立委員を任命し、練炭製造に向けて本格的に動き出した。なお海軍の大嶺炭田買収について、海軍大臣の山本権兵衛が有力財界人の渋沢栄一、浅野総一郎らが経営し、極度の経営難に陥っていた長門無煙炭鉱株式会社を救済することを目的として断行したものであるとの政財界癒着疑惑が流れたが、事実無根の話として問題とはならなかった。 山本権兵衛は1904年(明治37年)12月12日、第21回帝国議会の予算委員第四分科会の席で海軍の練炭製造所設立の経緯について、日露開戦に備えてイギリス産の無煙炭を可能な限り購入したものの、戦時下ではどうしても購入した無煙炭を日夜消費せざるを得ず、現状において戦争が終結する目途が立っておらず、しかもイギリス産の無煙炭の価格が高騰してしまい、今後、イギリス産の無煙炭を入手するのはかなり難しいとの現状を説明した。その上、バルチック艦隊が日本近海にやって来たら制海権を奪われてしまうのではないかとの認識を示し、そうなるとどうしても大嶺の無煙炭を購入して練炭を製造する必要に迫られているとした。そこで研究、検討を重ねた上で、(大嶺で)石炭を採掘し、練炭を製造するための相応の設備を建設し、軍需用の練炭を供給することに決定したと説明した。 1904年(明治37年)4月、海軍は長門無煙炭鉱株式会社の鉱区と周辺で石炭を採掘していた個人所有の小炭鉱を買収した。買収価格は長門無煙炭鉱が200000円、個人所有の小炭鉱が34000円の合計234000円であったと伝えられている。また炭鉱設備の整備費として100万円の支出も決定し、炭鉱の買収費用、整備費ともに海軍の予算で賄われることになった。その後1905年(明治38年)4月14日、臨時海軍練炭製造所採炭部が正式に発足し、1912年(明治45年)3月29日には海軍採炭所の管轄となり、福岡県糟屋郡に置かれていた新原海軍採炭所の支所(大嶺海軍採炭支所)という扱いとなった。なお、臨時海軍練炭製造所採炭部、海軍採炭所支所は地元では海軍炭鉱と呼ばれていた。 大嶺炭田の主要部分を買収した海軍は、1904年(明治37年)7月6日に武田秀雄海軍機関大監らが実地調査を行った。8月1日からは坑口の新設に着手し、大嶺炭田の炭層のうち下層を採掘することを目的とした荒川坑、櫨ケ谷坑、桃ノ木坑を、そして上層の石炭を採掘することを目的として北坑、南坑を開坑していく。11月からは採掘が開始されたが、開坑された各坑から出坑した石炭は、運搬手段が未整備であったためとりあえずは全て貯炭したと伝えられている。海軍艦艇の燃料国産化と練炭使用推進を大きな課題としていた海軍は、1906年(明治39年)6月20日、海軍軍令部長の海軍大将東郷平八郎が、南坑の開坑式に出席するなど、大嶺炭田からの無煙炭産出を重視する姿勢を見せた。
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