日露戦争前後のアジアとは? わかりやすく解説

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日露戦争前後のアジア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:31 UTC 版)

近代における世界の一体化」の記事における「日露戦争前後のアジア」の解説

詳細は「日英同盟」、「日露戦争」、「東遊運動」、「韓国併合」、「辛亥革命」、「ベンガル分割令」、「イラン立憲革命」、および「青年トルコ人革命」を参照 義和団事件東アジア国際秩序大きな変化もたらしたロシア建設中シベリア鉄道開通すれば大量人員物資輸送することが可能になることもあり、中国東北部から朝鮮半島への勢力拡大虎視眈々狙え状況になる一方イギリスボーア戦争大きな戦力割いたことから単独ロシア南下政策を防ぐことが出来なくなったまた、日本国内では単独南下するロシアには対抗できないため、伊藤博文らの日露協商論と桂太郎小村寿太郎らの日英同盟論の対立があった。最終的には、日英の対露への利害一致しイギリスは「栄光ある孤立」の外交方針放棄し桂太郎首相1902年日英同盟締結したその後仁川沖海戦1904年2月9日)で日露戦争開戦火蓋切られた。高橋是清イギリスアメリカ資本家日本国債購入依頼して回り戦争原資獲得した陸軍武器弾薬供給苦しみながら旅順攻囲戦1905年1月1日陥落)、奉天会戦同年2月21日3月10日)でロシア陸軍破った海軍日本海海戦同年5月)で遠路はるばる航海してきたバルチック艦隊壊滅した一方ロシア国内では国内労働者の待遇悪さ日露戦争戦況への不満から血の日曜日事件同年1月)が発生し武力鎮圧したその後国内では革命運動波及することとなった日露両国とも国内事情戦争継続困難なものになったこともあり、桂太郎小村寿太郎アメリカ派遣しセオドア・ルーズベルト仲介の元、ポーツマス条約締結された。日露戦争における日本勝利またもや東アジア国際情勢変化させるものとなったロシアポーツマス条約日本大韓帝国及び南満州利権承認することになったため、日本朝鮮半島への支配強化していき、最終的に1910年日本韓国併合した。そして、1911年関税自主権回復し明治維新よりの宿願だった不平等条約桎梏から日本解放された。 清朝では、日清戦争義和団事件反省日露戦争における日本勝利から「上からの近代化」が必要だということ痛感し隋の時代から続いていた科挙廃止し軍制改革実施1908年には大日本帝国憲法を範とした憲法大綱発布し責任内閣制採用した一方清朝打倒立場から孫文中心になり1905年中国同盟会結成し三民主義提唱し半植民地状態にある中国独立図った1908年光緒帝西太后相次いでこの世を去ると、2歳溥儀皇帝即位し、父の醇親王載灃摂政となった醇親王1911年5月鉄道国有化と、満州貴族中心とした親貴内閣組閣宣言したことは、張謇民族資本家の反発招いた彼等民族資本家は列強によって奪われ鉄道鉱山権益回収する利権回収運動進めていたため、その流れ清朝政府逆行したからである。「張謇張之洞協力得て1905年8月アメリカからベルギー売却され粤漢線広州 - 漢口)の敷設を675ドル買い戻したこと」が利権回収運動の一例である。1911年10月10日武昌蜂起契機辛亥革命勃発孫文臨時大総統据え中華民国建国された。革命勢力抗しきれない判断した清朝重鎮袁世凱革命派密約を結び、溥儀退位させ、中華民国大総統になり、1912年2月12日清朝滅亡した日露戦争勝利は、欧米列強支配下にあるアジア・アフリカ諸国影響及ぼしたベトナムでは、ファン・ボイ・チャウ阮朝皇族のクオンデを盟主として「ベトナム維新会」を結成し武器援助求めるべく1905年来日した亡命中の梁啓超通じて知り合った大隈重信犬養毅らからの人材育成の必要を説かれたことから、ベトナム青年日本留学させる東遊運動トンズー運動)を起こしたインドでは、ナショナリズム高揚する一方で人種言語、宗教カースト違いから足並みが揃わなかった。そのため、インド総督1905年ベンガル分割令発布しベンガル州をヒンズー教徒が多い西部と、イスラム教徒が多い東部分割し民族運動分断図った。そのため、インド国民会議1906年カルカッタ国民会議開催しカルカッタ4大綱領英貨排斥ボイコット)、スワラージSwaraj)、スワデーシーSwadeshi)、民族教育)を採択したイギリスインド国民会議牽制全インド・ムスリム連盟結成させた。こうして、イギリスインド内部対立利用してインド植民地維持図った西アジアムスリム知識人のあいだには、進む従属化に反対し、アフガーニーのように社会改革ムスリム連帯説くものが相次いであらわれたアフガーニーオスマン帝国ガージャール朝専制体制批判した中東地域ではイランイラン立憲革命が、トルコ青年トルコ人革命勃発したイランでは、アフガーニー国外追放されると、これを機にタバコ・ボイコット運動おこった運動1905年には立憲運動進展し1906年8月には立憲勅書獲得し、同10月第一議会招集され直ち憲法制定作業入り12月憲法発布された。しかしイギリス・ロシアの干渉議会閉鎖され革命挫折したオスマン帝国では、ミドハト憲法1876年制定されたものの露土戦争中に停止してスルタン独裁続いていたが、それに反対する「統一と進歩委員会メンバー陸軍青年将校たちが1908年反乱起こしミドハト憲法復活させてスルタン独裁放棄させた。これが、青年トルコ人革命である。新政権ドイツ結んで、国の近代化つとめたが、列強圧力国内諸民族独立運動勢い増したため、ふたたび専制政治もどった

※この「日露戦争前後のアジア」の解説は、「近代における世界の一体化」の解説の一部です。
「日露戦争前後のアジア」を含む「近代における世界の一体化」の記事については、「近代における世界の一体化」の概要を参照ください。

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