日露戦争後の拡張
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日露戦争後の1907年(明治40年)1月16日、富山電灯から富山電気株式会社へと社名を改めた。この時期には120キロワットの発電力では不足するようになっていたことから、拡張資金調達のため翌1907年(明治42年)1月に従来の9万円から60万円へ増資し、1911年(明治44年)上期にはさらに倍額増資を実施した。 まず短期間で整備可能な火力発電所の建設が進められ、富山市の北隣の上新川郡奥田村、神通川沿いの地にて出力110キロワットの奥田発電所が完成、1908年(明治41年)9月1日より発電を開始した。この発電所は石炭を燃料とし、原動機に蒸気機関を用いた。火力工事に並行して1908年3月より2番目となる水力発電所の建設に着手する。場所は大久保発電所よりもさらに南の婦負郡細入村大字庵谷(現・富山市庵谷)で、神通川上流の宮川から取水、6.4キロメートル余りの水路で落差を得て出力1,425キロワットを発電するというもの。しかし水路トンネル開削が難航して工事が遅れ、この庵谷発電所は1911年(明治44年)1月23日の運転開始となった。 庵谷発電所の完成に伴い市外の東岩瀬町・新庄町や婦負郡八尾町への供給が始まり、同年3月には高月送電線完成により中新川郡西水橋町・東水橋町・上市町・滑川町と下新川郡魚津町(現・魚津市)への供給も開始された。この年、電灯需要家数は前年比4倍増の1万3千戸、取付灯数は3.5倍増の2万5千灯へと拡大する。さらに5月からは高岡市の電力会社高岡電灯への電力供給も開始している。同社は受電開始を機に小火力発電所を廃止し、一時的に配電専業の事業者となった。1913年(大正2年)9月に開業した富山県最初の電気鉄道である富山電気軌道(富山地方鉄道富山軌道線の前身)にも、開業当初から給電している。 電気事業が広がりつつあった1907年、富山電気は都市ガス供給事業を企画し、農商務省の許可を得た。ところが富山市当局がガス事業を不安視したため市の道路占用許可を得られず、長い間事業に着手できなかった。ガス事業が他の地方都市にも広がりつつあった1912年(明治45年)3月になり、市はようやく道路占用を許可する。許可後は郊外の堀川村で開催される一府八県連合共進会に間に合わせるため急ピッチで工事が進められ、開催当日の1913年(大正2年)9月1日に開業に至った。 ガス工場の用地には1913年に廃止 された奥田発電所の跡地(現・日本海ガス本社所在地)が充てられ、ここに石炭ガス発生炉2基とガスホルダー1基が設置された。開業直前の報道によるとガス管の総延長は14.5キロメートル。市内630戸にガスが引かれ、ガス灯の利用が1308口、熱(ガス七輪またはガス炊飯器)の利用が552口あった。開業にあわせて点灯された桜橋のガス灯には見物客が列をなしたという。その後もガス事業は富山電気の兼営事業として続けられるが、電気事業が中心のためガス事業への積極投資はなく、徐々に需要が増える程度で推移していった。
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