日露戦争後の忠臣蔵ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
日露戦争後、国家主義思潮の高揚にともない、明治維新後最初の忠臣蔵ブームが起こる。その起爆剤になったのが、桃中軒雲右衛門の浪花節と近代の忠臣蔵物の原点となる福本日南の『元禄快挙録』であり、それらの背後には国家主義的な政治結社玄洋社の後援があった。 浪曲師桃中軒雲右衛門は玄洋社の後援で「義士伝」を完成させ、武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとっている。雲右衛門の義士伝はレコードという新しいメディアを利用する事で爆発的な人気を呼んだ。また浪曲師二代目吉田奈良丸も『大和桜義士の面影』で大高源吾と宝井其角の出会いを歌って大ヒットを呼び、「奈良丸づくし」と称して演歌にまでなった。この事が大高源吾の笹売り伝説の普及に一役買った。 明治42年には、玄洋社系の新聞九州日報の主筆兼社長である国粋主義者の福本日南著『元禄快挙録』のような、「義士」の犠牲精神を強調し、国民統合を目指した言説が登場し、洛陽の紙価を高めるような評判をとった。 この本によって戦前の近代日本における忠臣蔵の見解が示されたといっても過言ではない。これは時を同じくして国民道徳としての武士道が高揚されたことと無関係ではない。 活動写真もこの頃「忠臣蔵」を普及させたメディアの一つで、最初の忠臣蔵映画は、1907年に歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の五段目を撮影したものである。またこの頃の忠臣蔵映画の代表作の一つに、1912年の横田商会による牧野省三監督作品『実物応用活動写真忠臣蔵』全47場があり、主人公の尾上松之助が大石内蔵助、清水一学、浅野内匠頭の三役を演じている。この映画はその2年前に作成された松之助最初の全通し42場の『忠臣蔵』をもとにしたて村上喜剣の話などを付け加えたもので、「実物応用」というのは活動写真の合間に俳優が実演する映画の事である。この頃の忠臣蔵映画では、浪花節が口演されたりレコードで流されたりする事があった。 この後も忠臣蔵映画は作られ続け、御園京平の調査によれば、明治期から昭和戦中までに作られた忠臣蔵映画は、分かっているだけでも114本に及ぶ。
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