日露戦争後の関係改善
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 07:40 UTC 版)
1905年9月のポーツマス条約で日本は満州におけるロシアの権益を賠償として取得し、ロシアの極東進出は後退を余儀なくされた。またこの条約で南樺太が日本領となる。アメリカはポーツマス条約の仲介により漁夫の利を得て満洲に自らも進出し、極東への影響力強化を企んでいたが、このアメリカの影響力を排除することで日本とロシアは利害が一致し、数度に渡る日露協約を結んで満蒙(南北満州と蒙古)における両国の権益・勢力範囲を分割した。ロシアとの協約成立は、ロシアの報復を恐れていた日本政府を安堵させるものであった。1906年4月に東京において日露協会が誕生した。また、1906年8月にはロシア国技師のカ・カ・ヨーキシ(ロシア語: К. К. Иокиш)が、清国ハルピンにある所有地及び租借地を外国人、特に日本人へ譲渡したいという書簡を日本側に送り、その後、ハルピンが開市場となって日本とロシアの関係が深まった。 日露戦争後のイギリス・日本とロシアの間の歩み寄りの結果、1907年に第一次日露協約、日露新通商航海条約が結ばれ、1910年に第二次、1912年に第三次が締結されて二国間の相互理解と協力関係が強化された。 1908年にはロシアの軍艦が公海で日本の民間船を拿捕するという三重丸事件が起きている。1911年に日米英露の間でオットセイ及びラッコの保護条約である膃肭獣保護条約が結ばれた。 第二次大隈内閣時、1914年7月に始まる第一次世界大戦では共に連合国側に参戦することとなって友好関係が続き、1916年7月に第4次日露協約を結んで、日露両国は極東における相互の特殊権益の擁護を再確認した。ロシア政府の特使として同年1月に大正天皇即位の祝賀を名目に来日したゲオルギー・ミハイロヴィチ大公への返礼として、閑院宮載仁親王一行がロシアを訪問し、皇帝を初め、ロシア皇族・高官らと交歓した。
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