日露戦争時の朝鮮半島訪問
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「中田重治」の記事における「日露戦争時の朝鮮半島訪問」の解説
1904年(明治37年)2月10日に日露戦争が開戦する。大山巌元帥が派遣軍総司令官になり、数個の軍団が朝鮮半島に出動した。朝鮮半島に駐留した黒木為楨将軍の軍団のために、基督教各派で連合して、戦時伝道部を設けて戦地を慰問することになった。 基督教青年会同盟委員長の本多庸一は、福音同盟会の会長小崎弘道と共に、基督教の共同的奉仕について檄を飛ばした。それは、従軍布教師または軍隊慰問使を派遣することと、軍人が出入りしているところで伝道の方法を尽くすこと、内地と戦地で軍人用小冊子を配布することであった。 本多庸一はメソジスト派(美以派)の日本年会の任命した韓国伝道委員会委員長を兼ねて朝鮮半島に行くことになり、中田を同行者に選んだ。1904年5月14日に神戸港より筑後川丸で出発した。そして、5月16日に釜山に上陸して、木浦、仁川を経て、18日に京城に着いた。5月26日に歩兵第24連隊第1大隊で本多と共に説教をした。更に、6月10日には下痢と歯痛に耐えながら黄州に着いた。14日には、平壌に行った。 中田は本多と別れて義州に行き、鴨緑江を眺めて戦争の惨状を目撃した。7月3日に仁川から京城に帰った。中田はその後、京畿道、忠清道の諸教会を訪問して、京城に帰り、19日に仁川から乗船して7月21日に釜山港を経由して、7月28日には東京に帰る。
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