日露戦争後の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 10:09 UTC 版)
日露戦争後の明治42年、佐藤兵八、佐藤晋一など有漢村のリーダーを輩出していた大地主である佐藤家が倒産、東京で宗教思想家として活躍していた綱島梁川や当時の村長の柴原宗助が相次いで亡くなり、有漢村は存亡の危機に直面していた。佐藤家の倒産の影響は大きく、佐藤家が所有していた田畑や山林の多くが村外の人々の手に渡った。また納税できるものは全体の2割程度しかいなかった。 明治の初めから有漢村に医師として赴任していた神崎秀甫や佐藤晋一のもとで、理想の村づくりを見ていた中山祇重と蛭田伝助が有漢村の危機を救うために立ち上がった。中山祇重は柴原宗助の後の村長になり、蛭田伝助は助役となった。有漢村の立て直しの第一として、村外の人手に渡った田畑を村に買い戻すことから着手した。そのためには多額のお金が必要になるため、信用組合を創立、養魚場の経営、大正醸造の経営、村民へ副業のすすめ、山林の村営化、貸家事業をおこなった。蓄えた資金で土地を買い戻し、さらに教育にも力を入れていった。
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