日露戦争をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 23:55 UTC 版)
「アーサー・バルフォア」の記事における「日露戦争をめぐって」の解説
前任のソールズベリー侯爵と同様、バルフォアは当初日本の海軍力を高く見積もっており、日本との同盟によって日英の中国における海軍力を露仏のそれより上回らせ、もってロシア帝国主義の拡張を抑止し、中国情勢の現状維持を図ろうと考えていた。そのためには日露の和解も開戦も阻止する必要があった 日英同盟締結後も日本国内にはロシアと協商を結ぼうという動きがあった。これを警戒したバルフォアは1903年7月30日に日本政府に向けて声明を出し、「日本単独でロシアと協商関係を結ぶよりも日英両国でアメリカに働きかけ、日英米三国でロシアに圧力を加え、日本の主張をロシアに認めさせる方が得策である」と忠告した。また外相ランズダウン侯爵も駐英日本公使林董に対して「ロシアの満洲撤兵に関する協定が日露間だけで締結されるなら、日英同盟によって具現した日英の協調関係は弱まらざるを得ない。ロシアとの交渉は日英同盟の範囲内で慎重に行ってほしい」と要請した。 しかしロシアは満洲から撤兵する姿勢を全く示さなかったため、結局日露関係は1903年後半から一触即発状態となっていった。バルフォアもここに至って日露開戦は必至と判断するようになった。この頃イギリスの軍事専門家の多くは日本の敗戦を予想しており、その影響でバルフォアも日本への期待感を以前より薄め、1903年12月23日の覚書の中では「日本の海軍力はロシアより劣っている。そのため日本は安全に韓国へ派兵できないし、また派兵できたとしても海上補給線を切断されるであろう」と書いている。 バルフォアは日本がロシア帝国主義の防波堤になりえない(極東の現状維持ができない)なら、日露開戦を阻止する必要はないと考えるようになった。なぜならば、日露戦争が起こればロシアは戦争で国力を消耗させるだろうし、ロシアが勝利したとしても新たに手に入れるのは領土的に無価値な韓国だけであり、また日本も滅亡することはないだろうから、今後ロシアは無価値な領土を日本から守るために大軍隊を常に極東に貼り付かせる必要に迫られ、これがロシアの行動を阻害し、イギリスの行動を有利にすると考えられるからである。 このバルフォアの戦略転換によって日露開戦を妨げる要素はなくなり、1904年2月には日露戦争の勃発に至った。しかしバルフォアの予想に反し、日本軍は善戦し、1905年1月には最大の激戦地の旅順で日本陸軍がロシア軍を降伏に追い込んだ。これにはバルフォアも驚いたという。さらに1905年5月から6月にかけての日本海海戦でも日本海軍がロシア・バルチック艦隊を撃破した。 これを受けてバルフォアも日英同盟延長に前向きとなり、外相ランズダウン侯爵を林公使と折衝に当たらせ、1905年8月12日にも第二次日英同盟を締結した。その結果、同盟期間は10年に延長され、イギリスは日本が韓国を保護国化することを承認し、日本はイギリスがインドで行う植民地政策を承認することとなった。同盟適用範囲は東南アジアとインドにまで広げられた。さらに先の日英同盟が締結国の片方が二カ国以上と戦争になった場合にもう片方の締結国が参戦する内容だったのに対し、今度の日英同盟は一か国との戦争であってももう片方は参戦しなければならないという強固なものとなった。ここに日英両国は名実ともに同盟国となったのである。 戦争終結後の1905年9月29日には日本の君主である明治天皇にイギリス最高勲章ガーター勲章を送るべしとする外相ランズダウン侯爵の提言に首相として了解を出し、この提言は10月8日にも国王エドワード7世の裁可を得て、バルフォア退任後の1906年2月に実現することになる。 また日本を公使館国から大使館国に昇格させたのも日露戦争中のバルフォアだった。当時のヨーロッパでは大国には大使館、小国には公使館を置くのが伝統だった。特に気位が高いイギリスはこの格付けに拘っていた。20世紀初頭の段階でイギリスが大使館を設置していた国はフランス、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア、トルコ、スペイン、アメリカの8カ国のみであった。日本はこれに続く形でイギリスから大使館とするに値する国と認められたのであった(これ以降各国も次々とイギリスに倣って日本公使館を大使館に昇格させていった)。
※この「日露戦争をめぐって」の解説は、「アーサー・バルフォア」の解説の一部です。
「日露戦争をめぐって」を含む「アーサー・バルフォア」の記事については、「アーサー・バルフォア」の概要を参照ください。
日露戦争をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「日露戦争をめぐって」の解説
1904年2月に日露戦争が勃発した。エドワードは妻の甥にあたるロシア皇帝ニコライ2世(ニッキー)を昔から可愛がってきたため、個人的にはニコライを応援したがっていたが、同盟国日本を支援してロシアの拡張主義を抑えることがイギリスの国益であることは弁えていた。 エドワードは、日露講和の仲介役になるとニコライに申し出たが、ニコライは「南アフリカ戦争では誰もイギリスに停戦など迫らなかったではありませんか」と反論して断った。ついでエドワードは6月25日にドイツを非公式訪問し、甥にあたるヴィルヘルム2世と会見した(日本国内ではこれについて英独連携しての日露講和介入の前兆と推測された)。また8月12日にニコライの皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチが誕生すると、エドワードは皇太子ジョージやヴィルヘルム2世、デンマーク王クリスチャン9世らと共にその代父となった。これをニコライとの関係改善のきっかけにしたいという思いがあったという。 10月に入るとロシアのバルチック艦隊が極東へ送られることになったが、10月21日にはドッガーバンクでイギリス漁船が日本の水雷艇と間違われてバルチック艦隊に砲撃され、多くの英漁民が救助されずに落命する事件が発生した(ドッガーバンク事件)。この事件でイギリス国内の反露世論が高まり、エドワードも覚書の中で「最も卑劣な非道である」と怒りを露わにした。ニコライは25日にエドワード宛てに謝罪文を送ったが、それに対してエドワードは「貴方が優しい心を持っており、罪のない人々が命を落としたことを悲しんでいるのは分かるが、私と我が国民は貴方の艦隊が負傷者を一切助けずに続航したことに激昂している」と怒りの返信をし、また署名も普段ニコライ宛の手紙に書く「貴方の伯父バーティ」ではなく「エドワード国王」と他人行儀に書いた。 英国内では日露戦争の戦況は日本不利と分析されていたため、1905年1月にロシア軍が守る旅順を日本軍が陥落させたとの報告を受けたエドワードは非常に驚いた様子だったという。特に連合艦隊司令長官東郷平八郎提督に感心し、彼に個人的な激励メッセージを贈っている。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅するとバルフォア率いるイギリス政府も日本との同盟延長に前向きとなり、日英間で同盟延長交渉が進められ、8月までに両国の防衛範囲をインドにも拡張させた第二次日英同盟が締結された。エドワードは日本が極東だけでなくインドでもイギリスに協力してくれることに感謝した。 外相ランズダウン侯爵はこれを機に明治天皇にガーター勲章を贈ることを提案し、首相バルフォアの了承も得て、1905年10月にエドワードにその旨を上奏した。前述したようにエドワードは勲章の儀礼にうるさい王であり、異教徒の君主にガーター勲章を贈ることを嫌った。しかしこの頃までにはだいぶ親日家になっていたエドワードはほとんど難色を示すことなく、許可を出した。これにより1906年2月にもエドワードの弟コノート=ストラサーン公爵アーサー王子が「ガーター使節団」団長として日本に派遣され、明治天皇にガーター勲章を授与した。日本政府は使節団を歓待するため、到着日にあわせて大名行列を再演するイベントを催している。
※この「日露戦争をめぐって」の解説は、「エドワード7世 (イギリス王)」の解説の一部です。
「日露戦争をめぐって」を含む「エドワード7世 (イギリス王)」の記事については、「エドワード7世 (イギリス王)」の概要を参照ください。
- 日露戦争をめぐってのページへのリンク