日露戦争に至る日露間の建艦競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:28 UTC 版)
「建艦競争」の記事における「日露戦争に至る日露間の建艦競争」の解説
日本は日清戦争の勝利により清から遼東半島の割譲を受けたが、1895年の三国干渉により清に返還した。やがて同地はロシア帝国の租借するところとなり、旅順を根拠地としてロシア太平洋艦隊は急速な増強を遂げ、日本の安全保障上重大な脅威として顕在化してきた。 同国の脅威に対抗するため、日本は日英同盟を締結するとともに、清から得た賠償金の総額にほぼ匹敵する巨額の軍事費を投入して対露戦備を構築した。その過程において六六艦隊計画に基づく第一期・第二期海軍拡張計画が成立し、日本海軍は当時最新の戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻を建造するなど、世界第四位の大艦隊に急成長した。 一方でロシア海軍も最新鋭艦を優先的に太平洋艦隊に配備し、日露戦争開戦時には戦艦7隻を中心として日本連合艦隊とほぼ互角の戦力を保有するに至っていた。 一連の開戦に至る両国の推移は典型的な建艦競争であり、開戦直前においても日本は第三期拡張計画成立や装甲巡洋艦二隻(「春日」「日進」)の緊急調達など増強を続け、ロシアもまた最新のボロジノ級戦艦回航を計画していた。同戦争において海軍力の推移は開戦期を決定する重要な要素であり、日本は太平洋における両国の戦力比が最良となる機会を捉えて開戦を決断した。 参考:日清戦争前の日本海軍の整備推移 日本より一足早く軍拡を開始した清国は東洋最大の装甲艦定遠級戦艦を中核とした強力な海軍を整備し、国力に劣る日本は対抗戦力の整備に腐心することになる。 少ない国力で「定遠」「鎮遠」両艦に対抗する戦力を模索した日本は、戦艦の建造がなかなか実現しない中で同レベルの巨砲を搭載したより小型の軍艦を検討し、「三景艦」で実現する。 一応の対抗手段を保有した日本だが、やはり正面から対抗できる戦力を欲し、改めて戦艦の建造を計画する。建造費の捻出に苦慮する国情を憂えた明治天皇の建艦詔勅にて遂に実現した「富士」「八島」は日清戦争には間に合わなかったが、日露戦争において連合艦隊の重要な一翼を担うことになる。
※この「日露戦争に至る日露間の建艦競争」の解説は、「建艦競争」の解説の一部です。
「日露戦争に至る日露間の建艦競争」を含む「建艦競争」の記事については、「建艦競争」の概要を参照ください。
- 日露戦争に至る日露間の建艦競争のページへのリンク