日露戦争までの来歴とは? わかりやすく解説

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日露戦争までの来歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:09 UTC 版)

ステパン・マカロフ」の記事における「日露戦争までの来歴」の解説

ユリウス暦1848年12月27日グレゴリオ暦1849年1月8日)は、ロシア帝国領土だったウクライナヘルソン県ニコラーエフ現在のムィコラーイウ)で海軍准士官家庭生まれる。父の転属に伴いニコラエフスク・ナ・アムーレ移り1858年ニコラエフスク航海士学校入学する1865年航海士学校首席卒業したが、父の希望により航海士ではなく海軍士官候補生となる。 1867年太平洋艦隊配属される1872年バルト艦隊1876年黒海艦隊勤務となり、蒸気船コンスタンチン大公」の艦長に任ぜられた。マカロフは、ロシア海軍における水雷艇運用戦術論に関する第一人者ひとりであり、自らの発案によって、同艦を艦載水雷艇4隻搭載水雷艇母艦改造した1877年露土戦争において同艦と艦載水雷艇実戦投入され、当初失敗相次いだものの、8月12日には、黒海スフミ港外オスマン帝国海軍装甲艦「アーサール・シェブケト」に損害与えた。このときに使用されたのは外装水雷であったが、マカロフ艦長発明されたばかり自走水雷魚雷)にも注目しており、自ら海軍大臣働きかけ入手すると、艦載水雷艇搭載した。これは12月16日バトゥミ港外実戦投入されたが、このときは失敗した(1発は錨鎖衝突して弾頭外れ、もう1発は火薬不良不発)。続いて1878年1月14日深夜、やはりバトゥミ港外において、砲艦「インティバフ」を艦載水雷艇2隻が襲撃し、各艇1発ずつを命中させてうち1発が炸裂、同艦を撃沈したことで、「史上初め魚雷によって敵艦撃沈した」という栄誉得た1880年から1881年アハルテキン中央アジア探検隊に参加1881年から1882年には蒸気船タマーニ」、1885年にはフリゲートポジャールスキー公」の艦長務めた1886年にはコルベット「ヴィーチャシ」の艦長就任し1886年から1889年と、1894年から1896年の2回に渡って世界一周航海出ている。2度に渡る航海では、総合的な海洋調査実施し研究の成果を『ヴィーチャシ号と太平洋』にまとめて発表した。また海軍戦術論の大家としても世界的に知られ著書である『海軍戦術論』は世界各国翻訳され邦訳された物は東郷平八郎秋山真之のほか日本海軍将兵が必ず精読するような名著であり、東郷は自ら筆写したもの戦艦三笠私室備えていたという。 1890年少将昇進しバルト艦隊最年少提督となり、1891年海軍砲術主任監察官となる。1894年戦艦ニコライ1世」に座乗し、1895年極東赴任艦隊司令長官就任する1899年1901年北極探検実施し、この時砕氷船構想し世界最初の砕氷船イェルマーク」の建造命じている。また砕氷船バイカル湖にも導入フェリーバイカル」と貨客船アンガラ」を就航させた。

※この「日露戦争までの来歴」の解説は、「ステパン・マカロフ」の解説の一部です。
「日露戦争までの来歴」を含む「ステパン・マカロフ」の記事については、「ステパン・マカロフ」の概要を参照ください。

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