原型期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 06:24 UTC 版)
9世紀中葉における朝廷・国司は、群盗海賊の制圧のために養老律令の捕亡令(ほもうりょう)追捕罪人条にある臨時発兵規定により対応し始めた。臨時発兵とは、群盗海賊の発生に際し、国司からの奏上に応じて「発兵勅符」を国司へ交付し、国司は勅符に基づき国内の兵を発して群盗海賊を制圧する方式を指し、長らく適用されることはなかったが、群盗海賊の横行に直面してこの方式が採用されることとなった。 臨時発兵規定では、兵(軍団兵士や健児)および国内の人夫を動員した。国内の人夫とは百姓のうち弓馬に通じた武勇輩、すなわち、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる俘囚であった。臨時発兵規定の適用により、これらが、国衙が動員可能な国内の実質的な軍事力となった。特に俘囚が有していた高い戦闘技術は、新たに形成されようとしている軍制に強い影響を与えた。俘囚は騎馬戦術に優れており、騎乗で使用する白刃である蕨手刀は後の日本刀へとつながる毛抜形太刀の原型となっている。 883年(元慶7)に上総国で勃発した俘囚の武装蜂起(上総俘囚の乱)に際し、朝廷は発兵勅符ではなく、「追捕官符」を上総国司へ交付した。追捕官符とは、同じく捕亡令に基づくもので、逃亡した者を追捕することを命じ、国内の人夫の動員を許す太政官符である。この事件を契機として、以後、追捕官符を根拠として、国司は追捕のため国内の人夫を動員する権限を獲得することとなり、積極的に群盗海賊の鎮圧に乗り出すようになった。そして、国司の中から、専任で群盗海賊の追捕にあたる者が登場した。これは、後の追捕使・押領使・警固使の祖形であるとされている。 以上のようにして、国衙軍制の原型が形成されていった。
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