王朝貴族の墓と法華堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
その京の文化はどういうものであったかというと、10世紀から11世紀頃の貴族社会では火葬も土葬も行われていた。藤原摂関家累代の木幡の墓所のように一族の墓所はあったがそこは死穢の場所であり、埋葬後に木の卒塔婆が立てられたり、土葬した上に霊屋や、犬などに食い荒らされるのを防ぐ釘貫(くぎぬき:柵)などもつくられたりはするが、それらはそのまま朽ち果てるに任せた。そして継続的な墓参はなされず、貴族達は死者の供養を墓ではなく寺院や仏堂で行っていた。藤原氏の一族の墓である木幡も墓域に石塔が一つ建っていただけだという。一人一人の墓標はない。今日思われているほど遺骨は重視されてはいない。 そうした中で、1052年(永承7年)が末法元年であるとする末法思想が蔓延し、盛んに経塚造営や法華三昧堂(法華堂)建立が行われる。経塚では寛弘4年(1007年)の大和国金峯山の藤原道長のものが有名だが、法華堂もやはりその道長が山城国木幡の藤原氏の墓域に浄妙寺法華三昧堂を建立したのが始めである。その後その風習が皇族・貴族の上層部に広まる。そして鎌倉時代初期の御家人らの記憶の範囲、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、後鳥羽上皇、順徳天皇、後堀河天皇らはいずれも法華堂に葬られる。それが平安時代後期の上流階級での一般的な傾向である。例えば奥州平泉の中尊寺金色堂は奥州藤原4代の遺体を安置する墓堂、廟堂、つまりここでいう法華堂である。
※この「王朝貴族の墓と法華堂」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「王朝貴族の墓と法華堂」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。
- 王朝貴族の墓と法華堂のページへのリンク