ウマイヤ朝の勝利とは? わかりやすく解説

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ウマイヤ朝の勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 15:08 UTC 版)

第二次内乱 (イスラーム史)」の記事における「ウマイヤ朝の勝利」の解説

詳細は「マスキンの戦い」および「メッカ包囲戦 (692年)」を参照 684年6月のマルワーン・ブン・アル=ハカムカリフへの即位続いてイブン・ズィヤードがイラク再征服するために派遣された。その後、イブン・ズィヤードはアイン・アル=ワルダの戦いでタッワーブーンを破った一方マルジュ・ラーヒトの戦い壊滅的な敗北喫したカイス族はズファル・ブン・アル=ハーリス(英語版)の下でジャズィーラにおいて勢力立て直し、イブン・ズィヤードがジャズィーラ再征服ようとする努力1年わたって妨げ、イブン・アッ=ズバイル支援し続けた。イブン・ズィヤードはカイス族の要塞を落とすことができなかったため、ムフタール総督支配するモースル占領するために移動したモースル占領されムフタール都市奪還するために3,000人の騎兵からなる小規模な部隊送った686年7月ムフタール部隊戦闘勝利したにもかかわらずウマイヤ朝軍が数的に優位な状況であったために撤退したその1か月後、イブン・ズィヤードはハーズィルの戦い増強されたムフタール軍隊前に敗れて戦死した。イブン・ズィヤードが死亡したため、カリフアブドゥルマリクイラク再征服する計画数年わたって放棄しシリア支配固めることに焦点合わせたシリアにおけるアブドゥルマリク支配内部混乱ビザンツ帝国東ローマ帝国)との戦争の再開によって脅かされていた。それにもかかわらずアブドゥルマリク失敗終わった二度イラクへの軍事行動689年690年)を率い工作員通してバスラでイブン・アッ=ズバイル対す反乱扇動した。しかしバスラでの反乱失敗終わりバスラアブドゥルマリク支持者たちは報復としてムスアブによる弾圧受けたビザンツ帝国との停戦成立させ、内部対立克服したのち、アブドゥルマリクイラク視線戻した691年アブドゥルマリクジャズィーラ位置するカルキースィヤー(英語版)のカイス族の要塞包囲した要塞攻略失敗した後、アブドゥルマリク譲歩示して恩赦約束することでズファルを降伏導き味方引き入れることに成功したまた、アブドゥルマリクはこれらのかつてのイブン・アッ=ズバイル同盟者自軍組み入れることで軍隊強化し多く要因によってイラクにおける立場弱まっていたムスアブを打ち破るために行動起こした一方でハワーリジュ派中央政府による支配内乱によって崩壊して以降アラビア半島イラク、そしてペルシアにおける襲撃再開していた。イラク東部ペルシアではハワーリジュ派一派であるアズラク派英語版)が685年にイブン・アッ=ズバイルからファールスケルマーン奪い、イブン・アッ=ズバイル派の支配地への襲撃繰り返したクーファバスラ人々もイブン・アッ=ズバイル派によるアブドゥルマリク以前ムフタール支持者対す虐殺弾圧、そしてアブドゥルマリクによる懐柔工作のために離反続いていた。その結果アブドゥルマリク多くのイブン・アッ=ズバイル支持派であった人々亡命者確保することに成功した。さらに、ムスアブは配下で最も経験豊富将軍であるムハッラブ・ブン・アビー・スフラ(英語版)がかなりの数の部隊とともにバスラハワーリジュ派から守るために離れていたため、アブドゥルマリクに対して効果的な反撃に出ることができなかった。結局、ムスアブは691年10月起こったマスキンの戦いで、自軍武将の裏切りが重なったこともあり、ムフタール死後にムスアブの下に降っていたイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルとともにウマイヤ朝軍に敗れて戦死したイラクとその統制にあった地域のほとんどを確保したアブドゥルマリクは、イブン・アッ=ズバイルに対して将軍アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)を派遣した当時イブン・アッ=ズバイルはナジュダ・ブン・アーミル(英語版)に率いられもう一つハワーリジュ派分派であるナジュダ派の軍隊攻勢受けてヒジャーズ窮地に立たされていた。ナジュダ派は685年ナジュドとヤマーマ(英語版)で独立政権築き688年イエメンハドラマウト689年にはターイフ占領していた。アル=ハッジャージュは直接メッカには向かわずターイフ向かい抵抗を受けることなくターイフ占領すると、そこに拠点定めていくつかの小規模な戦闘でイブン・アッ=ズバイル部隊破ったその間シリアウマイヤ朝軍隊がイブン・アッ=ズバイル派の総督からマディーナ奪いその後692年3月メッカ包囲したハッジャージュを支援するために進軍した包囲は6か月から7か月わたって続き巡礼間中周囲山から投石行って攻め立てた。イブン・アッ=ズバイル軍隊大部分降伏し、イブン・アッ=ズバイル同年10月もしくは11月にアブドゥッラー・ブン・ムティーを含む残った支持者とともに打って出たが、戦闘殺害された。イブン・アッ=ズバイル死によってヒジャーズは再びウマイヤ朝支配下置かれることになり、内乱終結をみた。その後まもなくナジュダ派はハッジャージュによって打倒されアズラク派その他のハワーリジュ派696年から699年の間に鎮圧されるまでイラク活動続けた

※この「ウマイヤ朝の勝利」の解説は、「第二次内乱 (イスラーム史)」の解説の一部です。
「ウマイヤ朝の勝利」を含む「第二次内乱 (イスラーム史)」の記事については、「第二次内乱 (イスラーム史)」の概要を参照ください。

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