ウマイヤ朝の勝利
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「第二次内乱 (イスラーム史)」の記事における「ウマイヤ朝の勝利」の解説
詳細は「マスキンの戦い」および「メッカ包囲戦 (692年)」を参照 684年6月のマルワーン・ブン・アル=ハカムのカリフへの即位に続いてイブン・ズィヤードがイラクを再征服するために派遣された。その後、イブン・ズィヤードはアイン・アル=ワルダの戦いでタッワーブーンを破った。一方、マルジュ・ラーヒトの戦いで壊滅的な敗北を喫したカイス族はズファル・ブン・アル=ハーリス(英語版)の下でジャズィーラにおいて勢力を立て直し、イブン・ズィヤードがジャズィーラを再征服しようとする努力を1年にわたって妨げ、イブン・アッ=ズバイルを支援し続けた。イブン・ズィヤードはカイス族の要塞を落とすことができなかったため、ムフタールの総督が支配するモースルを占領するために移動した。モースルを占領されたムフタールは都市を奪還するために3,000人の騎兵からなる小規模な部隊を送った。686年7月にムフタールの部隊は戦闘で勝利したにもかかわらず、ウマイヤ朝軍が数的に優位な状況であったために撤退した。その1か月後、イブン・ズィヤードはハーズィルの戦いで増強されたムフタールの軍隊の前に敗れて戦死した。イブン・ズィヤードが死亡したため、カリフのアブドゥルマリクはイラクを再征服する計画を数年にわたって放棄し、シリアの支配を固めることに焦点を合わせた。シリアにおけるアブドゥルマリクの支配は内部の混乱とビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦争の再開によって脅かされていた。それにもかかわらず、アブドゥルマリクは失敗に終わった二度のイラクへの軍事行動(689年と690年)を率い、工作員を通してバスラでイブン・アッ=ズバイルに対する反乱を扇動した。しかしバスラでの反乱は失敗に終わり、バスラのアブドゥルマリクの支持者たちは報復としてムスアブによる弾圧を受けた。 ビザンツ帝国との停戦を成立させ、内部の対立を克服したのち、アブドゥルマリクはイラクに視線を戻した。691年、アブドゥルマリクはジャズィーラに位置するカルキースィヤー(英語版)のカイス族の要塞を包囲した。要塞の攻略に失敗した後、アブドゥルマリクは譲歩を示して恩赦を約束することでズファルを降伏に導き、味方へ引き入れることに成功した。また、アブドゥルマリクはこれらのかつてのイブン・アッ=ズバイルの同盟者を自軍に組み入れることで軍隊を強化し、多くの要因によってイラクにおける立場が弱まっていたムスアブを打ち破るために行動を起こした。一方でハワーリジュ派は中央政府による支配が内乱によって崩壊して以降、アラビア半島、イラク、そしてペルシアにおける襲撃を再開していた。イラク東部とペルシアではハワーリジュ派の一派であるアズラク派(英語版)が685年にイブン・アッ=ズバイルからファールスとケルマーンを奪い、イブン・アッ=ズバイル派の支配地への襲撃を繰り返した。クーファとバスラの人々もイブン・アッ=ズバイル派によるアブドゥルマリクと以前のムフタールの支持者に対する虐殺と弾圧、そしてアブドゥルマリクによる懐柔工作のために離反が続いていた。その結果、アブドゥルマリクは多くのイブン・アッ=ズバイル支持派であった人々の亡命者を確保することに成功した。さらに、ムスアブは配下で最も経験豊富な将軍であるムハッラブ・ブン・アビー・スフラ(英語版)がかなりの数の部隊とともにバスラをハワーリジュ派から守るために離れていたため、アブドゥルマリクに対して効果的な反撃に出ることができなかった。結局、ムスアブは691年10月に起こったマスキンの戦いで、自軍の武将の裏切りが重なったこともあり、ムフタールの死後にムスアブの下に降っていたイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルとともにウマイヤ朝軍に敗れて戦死した。 イラクとその統制下にあった地域のほとんどを確保したアブドゥルマリクは、イブン・アッ=ズバイルに対して将軍のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)を派遣した。当時イブン・アッ=ズバイルはナジュダ・ブン・アーミル(英語版)に率いられたもう一つのハワーリジュ派の分派であるナジュダ派の軍隊の攻勢を受けてヒジャーズで窮地に立たされていた。ナジュダ派は685年にナジュドとヤマーマ(英語版)で独立政権を築き、688年にイエメンとハドラマウト、689年にはターイフを占領していた。アル=ハッジャージュは直接メッカには向かわずにターイフに向かい、抵抗を受けることなくターイフを占領すると、そこに拠点を定めていくつかの小規模な戦闘でイブン・アッ=ズバイルの部隊を破った。その間にシリアのウマイヤ朝の軍隊がイブン・アッ=ズバイル派の総督からマディーナを奪い、その後、692年3月にメッカを包囲したハッジャージュを支援するために進軍した。包囲は6か月から7か月にわたって続き、巡礼期間中も周囲の山から投石を行って攻め立てた。イブン・アッ=ズバイルの軍隊の大部分が降伏し、イブン・アッ=ズバイルは同年10月もしくは11月にアブドゥッラー・ブン・ムティーを含む残った支持者とともに打って出たが、戦闘で殺害された。イブン・アッ=ズバイルの死によってヒジャーズは再びウマイヤ朝の支配下に置かれることになり、内乱は終結をみた。その後まもなくナジュダ派はハッジャージュによって打倒され、アズラク派とその他のハワーリジュ派は696年から699年の間に鎮圧されるまでイラクで活動を続けた。
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