ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡とは? わかりやすく解説

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ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡」の解説

6世紀初頭フランク王国との戦い敗れ国家重心イベリア半島移した西ゴート王国は、約1世紀をかけて半島全土支配下おさめた589年キリスト教アリウス派からカトリック改宗していた西ゴートは、イベリアカトリック化を推進した一方661年建国されイスラーム国家ウマイヤ朝は、積極的な拡張政策によって急速に勢力拡大していた。8世紀初頭までに北アフリカ西端まで版図広げていたウマイヤ朝は、710年ジブラルタル海峡越えてイベリア半島上陸した。この時は一部都市襲撃したけだったが、西ゴート側の抵抗が弱いのを知り本格的な遠征軍組織しはじめた。 翌711年ターリク・イブン・ズィヤード率い遠征軍ジブラルタル海峡越えた同年7月19日ターリクグアダレーテ河畔の戦い西ゴート軍に壊滅的打撃与え国王ロドリーゴ戦死させた。王が死んだ西ゴートには後継者がおらず、その混乱乗じてウマイヤ朝支配領域拡大していった。710年代終わりまでに、ムスリム勢力イベリア半島北上しカンタブリア山脈以北およびピレネー山脈以北までキリスト教勢力追い詰めていった。この頃イベリア半島南部イスラムアル・アンダルスヴァンダル人の地の意、アンダルシア語源)と名前を変えた征服した土地では新たな統治始まっていた。ウマイヤ朝イベリア半島キリスト教化推進した西ゴート王国比べて宗教寛容だった。ムスリムは被征服者に対して改宗強制しなかったが、その代わりジズヤ人頭税)を要求したユダヤ教徒キリスト教徒区別なく、ジズヤ納めれば信仰保持できた。ただし、ある種社会的格差存在しており、そのためにイスラム教改宗するものが相次いだまた、高額ジズヤ納められずに北部逃亡する者や、反乱に加わる者も少なくなかった

※この「ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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