ウマイヤ朝による統治の再確立に向けた軍事行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:54 UTC 版)
「マルワーン1世」の記事における「ウマイヤ朝による統治の再確立に向けた軍事行動」の解説
「マルジュ・ラーヒトの戦い」も参照 カルブ族と対立してイブン・アッ=ズバイルを支持した部族連合のカイス族はマルワーンのカリフ位継承に反対し、同様にイブン・アッ=ズバイルを支持していたジュンド・ディマシュク(英語版)(ダマスクス)総督のダッハーク・ブン・カイス(英語版)に対して戦争のために軍を動員するように求めた。これに応じたダッハークとカイス族はダマスクスの北のマルジュ・ラーヒトの平野に陣地を築いた。カルブ族が支配的な部族であったジュンド・アル=ウルドゥン(英語版)を除き、シリアのジュンドのほとんどがイブン・アッ=ズバイルを支持していた。 一方でマルワーンはカルブ族とその同盟部族による支援を受け、自軍より大規模であったダッハークの軍隊に向けて進軍した。同時にダマスクスではガッサーン族(英語版)の有力者がダッハークの支持者を追放し、都市をマルワーンの支配下に置いた。そして684年8月に起こったマルジュ・ラーヒトの戦いで両軍は激突した。結果はマルワーン軍がカイス軍を完全に打ち破り、ダッハークは戦死した。この結果、シリアでマルワーンが台頭するとともにカルブ族が属するクダーア族(英語版)の部族同盟の力が認められることになり、戦いの後にはホムスの部族同盟であるカフターン族(英語版)と同盟を結び、「ヤマン」の名で知られる新しい大部族を形成した。しかしながら、マルジュ・ラーヒトの戦いにおけるウマイヤ朝とヤマン族の圧倒的な勝利は、長期にわたるカイス族とヤマン族の確執(英語版)という負の遺産も残した。カイス族の残軍はジャズィーラ(メソポタミア北部)のカルキースィヤー(英語版)の要塞を奪ったズファル・ブン・アル=ハーリス(英語版)の下に逃れ、ズファルはそこからウマイヤ朝と対立する部族を率いた。マルワーンの作とされる詩の中で、マルワーンはマルジュ・ラーヒトの戦いにおけるヤマン族の支援に感謝の意を示した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}それが略奪品の一つとなるであろうことを理解した時、彼ら(カイス族)に対抗するためにガッサーン族とカルブ族を配した。さらにはサクサク族(キンダ族)、勝利を収めるであろう者たち。タイイ族(英語版)、一撃を加えることを求める者たち。そして困難で高く聳え立つタヌーフ族(英語版)、その力にカイス族は打ちひしがれ、倒されるであろう。敵は力ずくでなければカリフの地位を奪い取ることはないであろう。そしてカイス族が近寄ってきたなら、こう言え、近寄るな! マルワーンはすでにジャービヤにおいてウマイヤ朝支持派の部族に認められていたが、7月もしくは8月にダマスクスで行われた式典でカリフとして忠誠の誓いを受けた。マルワーンはヤズィードの未亡人でハーリドの母であるウンム・ハーシム・ファーヒタと結婚し、これによってスフヤーン家との政治的な結びつきを得た。ヴェルハウゼンは、この結婚によってマルワーンがヤズィードの息子たちの継父となることで、ヤズィードの系統の継承権を奪おうと試みたとする見解を示している。また、マルワーンはシュルタ(英語版)と呼ばれる治安部隊の長官にガッサーン族のヤフヤー・ブン・ヤフヤー・アル=ガッサーニー(英語版)を任命し、ハージブ(侍従)として自身のマウラーであるアブー・サフル・アル=アスワードを任命した。 マルジュ・ラーヒトでの勝利とシリア中部におけるウマイヤ朝による権力の統合にもかかわらず、マルワーンの権威はウマイヤ朝がかつて領土としていた残りの地域では認められていなかった。ケネディによれば、ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードとイブン・バフダルの助けを借りながら、マルワーンは「強い意志と行動力」を持ってウマイヤ朝の支配の回復に取り掛かった。マルワーンはシリア北部におけるウマイヤ朝の支配力を強化し、治世の残りの期間はウマイヤ朝の支配権の回復に力を注いだ。 マルワーンはパレスチナにラウフ・ブン・ズィンバーを派遣し、ラウフは同じジュザーム族の出身で部族の指導権を争う対抗相手であったイブン・アッ=ズバイル派の総督のナティル・ブン・カイス(英語版)をメッカへ追放した。さらに、マルワーンは685年2月もしくは3月までにエジプトの首府であるフスタートのアラブ部族の有力者から重要な支援を得てエジプトの支配を回復することに成功した。エジプトのイブン・アッ=ズバイル派の総督であるアブドゥッラフマーン・ブン・ウトバ(英語版)は追放され、エジプト総督の地位にはマルワーンの息子のアブドゥルアズィーズが任命された。 その後、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)が率いる遠征軍がパレスチナへ侵攻してきたものの、アシュダクの率いるウマイヤ朝軍が撃退に成功した。しかし、マルワーンが反対にヒジャーズへ派遣したクダーア族のフバイシュ・ブン・ドゥルジャ(英語版)が率いる遠征軍は、マディーナ東方のラバダ(英語版)でイブン・アッ=ズバイル側の軍隊の前に壊滅的な敗北を喫した。一方、これと同時期にマルワーンはユーフラテス地方中部のカイス族の動きを抑えるために息子のムハンマドを派遣し、さらにイブン・アッ=ズバイルを支持する勢力とアリー家(英語版)を支持する勢力(この勢力は正統カリフのアリーとその子孫を指導者として仰ぐイスラームの宗派であるシーア派の端緒となった)からイラクを奪回するために、ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードが率いる遠征軍を685年の上旬に派遣した。
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