ウマイヤ朝とフランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 04:24 UTC 版)
「ウード (アキテーヌ公)」の記事における「ウマイヤ朝とフランク王国」の解説
ウードは自身の領土を侵略したウマイヤ朝およびフランク王国の軍とやむなく戦った。721年6月9日、ウードはトゥールーズの戦いにおいて、アル=サムフ・イブン・マーリク・アル=ハウラニー(Al-Samh ibn Malik al-Khawlani)に勝利した。この戦いはウマイヤ朝による最初の北方への遠征であり、何千ものウマイヤ朝兵士の命が奪われた。この歴史的勝利は教皇により贈り物とともに称賛され、教皇はウードをキリスト教の英雄と称え、ウードの独立を認めた。 ウマイヤ朝との国境を保障するため、ウードは娘(おそらく名はランペジア)を、フランク人からは「ムヌザ」と言われた、ウマイヤ朝のベルベル人領主で後のカタロニアの代官ウスマン・イブン・ナイッサ(Uthman ibn Naissa)と結婚させた。
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