ウマイヤ朝のセプティマニア征服とオータン侵攻
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「ウマイヤ朝のガリア侵攻」の記事における「ウマイヤ朝のセプティマニア征服とオータン侵攻」の解説
716年までに、西ゴート王国の版図は南からウマイヤ朝の圧迫を受けてセプティマニア(現ラングドック=ルシヨン)にまで押し込められた。717年までに、総督フッル率いるウマイヤ軍はイベリア半島征服の余勢を駆ってピレネー山脈東部を越え、アクィタニアやセプティマニアへの侵攻を始めた。しかしこの時には、ガリアの奥深くまで進行することができなかった。 軍の指揮を引き継いだサムフ・ハウラーニーは、719年にバルセロナとナルボンヌで現地の抵抗を破り両都市を占領し、市内の守備兵や住民を虐殺した。720年から、ナルボンヌはイスラーム勢力下のセプティマニアの首都および軍の基地となった。街のサン=ルスティック教会の内部にモスクが建てられた。 ウマイヤ軍は721年のトゥールーズの戦いでアクィタニア公ウードに敗北を喫する。フランク人側から「サマ」(Zama)と呼ばれた総督サムフも戦死した。しかし大局的には、セプティマニアのゴート人が自治を認められる好条件と引き換えにウマイヤ朝に降伏してしまったため、ウマイヤ朝の版図はさらに奥深く食い込むこととなった。 725年、サムフの後継者アンバサはカルカソンヌを包囲した。カルカソンヌ市はムスリム軍に領土の半分や貢納金を差し出し、攻守同盟を結ばされた。他のニームなどセプティマニアの都市も皆同じようにウマイヤ朝の手に落ちた。さらにアンバサは北上を続けオータンにまで達したが、726年に陣没した。この720年代、エブロ川峡谷やセプティマニアから、戦乱や虐殺、破壊を逃れた難民が多くピレネー山脈を越えてアクィタニアやプロヴァンスに流れ込んだ。 この時代、ベルベル人の将軍ムヌーサ(英語版)(ウスマーン・ブン・ナイサー)がサルダーニャの長官となり、現在のカタルーニャの大部分を押さえた。これ以降、彼を中心にアラブ人の支配者に対するベルベル人軍人の不満が膨れ上がっていった。
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