ウマイヤ朝下のジャアファル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:10 UTC 版)
「ジャアファル・サーディク」の記事における「ウマイヤ朝下のジャアファル」の解説
ジャアファル・アッ=サーディクは激しく転変する時代に生きた。ジャアファルは、先々代イマーム・アリーの信徒らに重んぜられたが、彼らはウマイヤ朝から見れば異端的な反乱軍であり、ジャアファルの縁者の多くはウマイヤ朝によって死に追いやられたのである。叔父のザイド・ブン・アリーはジャアファルの父のムハンマド・アル=バーキルが没した直後、ウマイヤ朝に対して反乱を起こした。ジャアファルはこれには参加しなかったが、ザイドをはじめ縁者の多くが亡くなり、また罰された。ウマイヤ朝末期の数年間にはこのほかにも多くの反乱があり、750年のアッバース朝成立に至る。このときジャアファルは48歳になっていた。 諸々の反乱勢力はジャアファル・アッ=サーディクの支持を求めたが、ジャアファルは自身の見解をはっきりとさせずに、この類の要請をはぐらかしつづけた。ジャアファルはカリフ位を彼に与えるというような文言を持つ書簡を燃やしてしまい「この者は私に従う者ではなく、そもそも神の領域に属することをなすことは、この者にはできない」と言ったという。ジャアファルはその本意を隠し、慎重に沈黙を続け、シーア派教義タキーヤ(信仰秘匿)の確立の淵源はここにあるとされる。タキーヤはすなわち、自らの本来の信条を明らかにすることで自己や他者が危険な状態に置いてしまうような場合、これを隠すことが認められるという教義である。
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