第二回攻囲戦とは? わかりやすく解説

第二回攻囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)

アンティオキア攻囲戦」の記事における「第二回攻囲戦」の解説

6月3日が終わるころには、十字軍市内のほとんどを制圧していた。しかし、山頂にある城塞だけはまだ落とすことができなかった。城塞にはヤギ=シヤーンの息子シャムス・アッ=ダウラ(Shams ad-Daulah)が立てこもり抵抗続けていた。教皇使節アデマールイオアンニス7世を解放して再びアンティオキア総主教とした。アデマールは、ボエモンアンティオキア領有主張する状況のなか、少しでも正教会東ローマ帝国との関係良好に保とうとした(後にアンティオキア公国成立するカトリック系アンティオキア総主教立てられイオアンニス7世は最後にコンスタンティノープルへ追放される)。 しかし城内は食糧不足であり、ケルボガ軍も近く迫っていた。ケルボガアンティオキア陥落2日後である6月5日になってようやくアンティオキア到着した。彼は6月7日城内への突入試みるが難攻不落城壁跳ね返された。ケルボガ戦法攻囲戦切り替え6月9日までに十字軍立てこもるアンティオキア市に対す包囲完成させた。こうして十字軍逆に攻囲戦仕掛けられるになってしまった。 城内十字軍のうち多数ケルボガ軍が到着するまでにアンティオキア脱走しタルススにいたブロワ伯エティエンヌらに合流したエティエンヌらはアンティオキア引き返しケルボガ軍が市を包囲して近く陣営張っているのを見て、もう城内十字軍望みは無いと考えた。他の脱走兵らもこれを確認したコンスタンティノープルに戻る途中ブロワ伯エティエンヌほか十字軍脱走者は、十字軍支援のために首都出てきた皇帝アレクシオス1世コムネノスの軍に出あい皇帝面会した事情知らない皇帝十字軍現況尋ねたが、エティエンヌは他の十字軍将兵はみな戦死した説明した皇帝アレクシオスは自らの偵察兵からもアナトリア半島に他のセルジューク軍が迫っていると聞き戦い避けるためにコンスタンティノープルへ引き返した

※この「第二回攻囲戦」の解説は、「アンティオキア攻囲戦」の解説の一部です。
「第二回攻囲戦」を含む「アンティオキア攻囲戦」の記事については、「アンティオキア攻囲戦」の概要を参照ください。

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