第二回展―1910年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 06:19 UTC 版)
「ミュンヘン新芸術家協会」の記事における「第二回展―1910年」の解説
1910年春、ミュンヘン新芸術家協会の芸術家たちは次の展覧会に向けたて新しい活動を活発に始めた。それはあたかも、昨年芳しくない評判を受けた保守的なミュンヘンの芸術界に対して再び挑戦するかのようであった。そのためにエルプスレーは―彼はヴェレフキンの親友で協会の書記であった―パリから援軍としてフォーヴィスムの芸術家を幾人か動員するために、わざわざフランスを査察旅行した。ヤウレンスキーとヴェレフキンの親密な友人であったジリウーはエルプスレーの行脚の水先案内人を務めた。エルプスレーとジリウーの任務は、出展者名簿の拡充が示すように、成功をおさめた。 第二回展は1910年の9月1日から14日の会期で、同じくタンハオザー画廊で行われた。今回の展覧会では、31人の芸術家による115点の作品が展示された。協会メンバーのベヒテイェフ、ボッシ、エルプスレー、ジリウー、ヤウレンスキー、カンディンスキー、カノルト、コーガン、クビン、ミュンター、ヴェレフキン以外の出展者の詳細は、 ジョルジュ・ブラック ダヴィド・ブルリューク ウラジーミル・ブルリューク (Wladimir Burljuk, 1886 - 1917) ワシリー・デニソフ(1862 - 1922) アンドレ・ドラン キース・ヴァン・ドンゲン (Kees van Dongen, 1877 - 1968) フランシスコ・ドゥリオ (Francisco Durio, 1868 - 1940) アンリ・ル・フォーコニエ (1881 - 1946) ヘルマン・ハラー (Hermann Haller, 1880 - 1950) ベルンハルト・ヘトガー (1874 - 1949) オイゲン・フォン・カーラー (Eugen von Kahler, 1882 - 1911) アレクサンドル・パヴロヴィチ・モギレフスキー (Alexander Pawlowitsch Mogilewski) アドルフ・ニーダー (Adolf Nieder, 1873 - 19??) パブロ・ピカソ ジョルジュ・ルオー エドヴィン・シャルフ (Edwin Scharff, 1887 - 1955) Seraphim Soudbinine (1870 - 1944) モーリス・ド・ヴラマンク であった。 今日まで詳らかにされていないことは、なぜよりにもよってヤウレンスキーの友人であるとされているマティスの出展がなかったのか、ということである。またアルプスレーとジリウーは、アンリ・ルソーが協会展に興味を示すことを見越して、彼のアトリエを訪問したが、ルソーはミュンヘンの展覧会参加を断念せざるを得なかった。彼は全ての絵を売って手放してしまっていたからである。 ミュンヘン新芸術家協会の展覧会が開幕すると、新聞からはまた嘲笑をもって迎えられた。「ばかげた展覧会」「おふざけ」「凝縮されたナンセンス[…中略…]未開人のカーニバルからデカダン派洟垂れパリっ子まで」―また、こう言って罵倒された。「協会員の多数及びゲストの芸術家は回復の見込みない気違いであったか、それとももしくは、これは恥知らずの虚勢張りたちのしでかしたことだ。」
※この「第二回展―1910年」の解説は、「ミュンヘン新芸術家協会」の解説の一部です。
「第二回展―1910年」を含む「ミュンヘン新芸術家協会」の記事については、「ミュンヘン新芸術家協会」の概要を参照ください。
- 第二回展―1910年のページへのリンク