第2回十字軍
第二回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:59 UTC 版)
詳細は「第2回十字軍」を参照 伝統的には、レコンキスタの開始は722年のコバドンガの戦いにおけるイスラム側の敗北だとみなされている。 1095年から1099年の第1回十字軍のあと、教皇パスカリス2世はイベリア十字軍(ポルトガル、カスティーリャ王国、レオン王国、アラゴン王国、その他)に対して、故国に留まって彼ら自身の戦いを続けることが、エルサレムへの十字軍遠征と同じ価値を持つと訴えた。 1142年、ポルトガル王アフォンソ1世は、北方からの十字軍兵士(アングロ=ノルマン勢)の聖地への経由地である利点を生かし、彼らを動かしてリスボン市を攻撃・占領しようとした。この企ては結局は失敗して十字軍参加者の中に混乱を残したが、王は将来の攻勢で彼らを活用できる可能性を見出した。 1144年のエデッサの陥落(英語版)は教皇エウゲニウス3世による新たな十字軍の呼びかけ(1145年 - 1146年)を引き起こした。1147年の春、教皇はイベリア半島で行われている「何百年間も続いているムーア人に対する戦い」もまた十字軍であると認めた。教皇はマルセイユ、ピサ共和国、ジェノヴァ共和国、その他の地中海沿岸都市に対してイベリアで戦うことを推奨した。同様に、カスティーリャ王およびレオン王であるアルフォンソ7世に対して、ムーア人に対する彼の戦役も十字軍と同じ価値を持つと認めた。 様々な国と地方から集まった十字軍の一団が1147年5月19日にイングランドのダートマスを出発した。彼らはフランドル、フリージア、フランス、イングランド、スコットランド、それにいくつかのドイツの領邦から来ていた。彼ら自身は自分たちを広義の"フランク勢"と看做していた。 王や君主はこの遠征行には参加していなかった。参加者の大部分は自ら誓約して集まった民間人だったようである。サフォークのコンスタブルだったハーヴェイ・ド・グランヴィル(英語版)は指導者の一人だった。 他の十字軍の隊長たちとしてはen:Arnout IV, Count of Aarschotがラインラント人を率い、ギステルのクリスティアンがフランダース勢とブーローニュ勢を指揮し、アングロ・ノルマン勢はドーヴァーのシモン、ロンドンのアンドリュー、アルシェルのサヘアらが率いていた 。重要な決定は、指揮官達が集まって下された。
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