第二回国民請願(1840年)
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「チャーティズム」の記事における「第二回国民請願(1840年)」の解説
1840年、無数の勢力を統合するべしという獄中指導者の構想を受け、全国憲章協会 (National Charter Association) が創設される。これまでの同志会的連合を改め、期日ごとに会費を支払う一般会員の上に、地区会や支部会などが置かれ、最終的に中央執行員会が設置される党的な集権体制をとった。また、同時に「次なる策」論争で中産階級急進派は既に脱落しており、4万人の労働者会員を持つ政治勢力に純化していた。一方、ラヴェットは『人民憲章』の実現のためには労働者が知性や道徳性を改善せねばならないと考え、まずは労働者の教育を充実させることが重要であると見地から「人民向上国民協会」(英語版)(以下、国民協会と略記)を設立した。中産階級の協力を前提とした階級協調の立場をとって、主に教育活動や平和的なデモ活動に専念するべきと説いた。 そんな中、オコナーが解放された。オコナーは「自由のライオン」、「憲章のチャンピオン」と讃えられ、憲章協会の頂点に立っていた。かつてのコンベンションは名を「ナショナル・コンベンション」に変え、完全にオコナー的な暴力派の影響下に入っていた。かれらは危機的な恐慌下で苦しむ人々の支持を背景に再び「国民請願」を実施する計画を立てる。1840年5月2日、331万もの署名による請願は急進派議員トマス・ダンカンの手で庶民院に提出されたが、自由党のジョン・ラッセルやトマス・マコーリーの反対演説により、まもなく287対49で否決された。
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