東ローマ・オスマン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:34 UTC 版)
「アルタ (ギリシャ)」の記事における「東ローマ・オスマン時代」の解説
1204年の十字軍によるコンスタンティノープルの陥落で、アルタはエピロス専制侯国の首都となった。エピロス専制侯国は、ドゥラキウムまで拡大し、その領域はギリシャ北西部やテッサリア地方、マケドニア北西部にまで及んだ。建国者であるミカエル1世コムネノス・ドゥーカス(1205年-1215年)は、東ローマ帝国のコムネノス家の親戚であった。その後アルタは、イタリアのオルシーニ家(1318年-1337年)、セルビア帝国(1337年-1359年)、アルバニアの豪族(1359年-1416年)による短期間の支配の後、イタリア人のカルロ2世・トッコおよびレオナルド3世トッコによって支配され、1449年にオスマン帝国に征服され、町はナルダ(Narda)と改名された。ナルダは1717年にヴェネツィア共和国に、1797年にフランスに占領されたが、1799年に再びオスマン帝国領となった。そして1881年のベルリン条約[要曖昧さ回避]によって、ナルダはオスマン帝国からギリシャ王国に割譲された。
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