東ローマとの和平、内戦への干渉
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「ミハイル3世シシュマン」の記事における「東ローマとの和平、内戦への干渉」の解説
ブルガリアの東ローマ領への侵入を咎める名目でコンスタンティノープルにブルガリアの使者が呼び出されたにもかかわらず、早々にブルガリアとアンドロニコス3世の間で交渉が行われた。ミハイル3世はセルビア出身の妃アンナ・ネダとの離婚、テオドル・スヴェトスラフの寡婦テオドラ・パレオロギナとの再婚を決定する。ミハイル3世が2つの決定を下した正確な理由は不明であるが、多くの歴史家はセルビアのマケドニア進出のため、ブルガリアとセルビアの関係が悪化したためだと推定している。 婚姻によってブルガリアと東ローマの同盟が成立したが、同時にミハイル3世はセルビアとの戦いに備えて東ローマに譲歩をすることになり、二国の国境はフィリッポポリス・チェルメノン(現在のオルメニオ(英語版))・ソゾポリスのラインに策定される。1324年秋に二国は友好条約に調印し、ブルガリアと東ローマの間に数年の間の平穏が訪れる。この条約により、ブルガリアはバルカン山脈の南、北トラキア、ザゴリアなどを回復する。 1327年、ミハイル3世は東ローマ帝国内のアンドロニコス3世とアンドロニコス2世の内訌に干渉する。義兄弟のアンドロニコス3世の政敵であるアンドロニコス2世はセルビアの支援を受けていた。ミハイル3世はアンドロニコス3世とチェルメノンで会談を行い(チェルメノン条約(英語版))、反セルビアの協定を結んだ。条約において、アンドロニコス3世は単独の皇帝となった後にブルガリアに領土の割譲と多額の報酬の支払いを約束した。 チェルメノン条約によってアンドロニコス3世はマケドニアの支配権を獲得するが、東ローマの内戦の長期化を望むミハイル3世はアンドロニコス2世と交渉を行い、軍事支援と引き換えに資金と国境地帯の都市の割譲を約束された。ブルガリアからIvan the Russianが率いる3,000の騎兵隊がコンスタンティノープルの宮殿とアンドロニコス2世の護衛として派遣されたが、ミハイル3世が派遣した援軍はコンスタンティノープルの占領とアンドロニコス2世の捕獲を真の目的としていた。しかし、アンドロニコス2世はアンドロニコス3世から警告を受け、ブルガリア軍を慎重に首都から遠ざけていった。計画を見破られたことを知ったミハイル3世は、「命令を迅速に実行するべきだった」という意味を持つ焼け焦げた羽根を添えて、Ivan the Russianに退却を命じる手紙を送った。 アンドロニコス3世が祖父に勝利した後も、ミハイル3世はいくつかの東ローマ領の都市の占領を試みている。1328年6月にミハイル3世はトラキアの東ローマ領に侵入し、Vize(en)近辺で略奪を行ったが、アンドロニコス3世の進軍を知ると撤退する。アドリアノープル(現在のエディルネ)に進軍したブルガリアの別動隊も交戦をすることなく撤退し、1328年10月の平和協定の更新において、ミハイル3世は多額の賠償金の支払いを要求される前に帰国した。だが、ブルガリアは軍事作戦の初期段階において占領したBukelon(en)の要塞を東ローマに返還しなければならなかった。 翌1329年初頭、ミハイル3世はマケドニアで勢力を拡大しつつあるセルビアに対抗するため、アンドロニコス3世に会談の開催を要請した。ソゾポリスとAnchialusの間に位置するKrimniにおいて、ブルガリアと東ローマは「恒久的な和平と永遠の同盟」を約束した。
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