東ローマとサーサーンの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 09:39 UTC 版)
「カーディシーヤの戦い」の記事における「東ローマとサーサーンの関係」の解説
預言者ムハンマドの時代、ペルシアはサーサーン朝の皇帝ホスロー2世の統治下にあった。ホスロー2世は、妻の父である東ローマ皇帝マウリキウスが軍の反乱で殺されると、仇討ちを主張して東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)を引き起こした。サーサーン朝軍はシリア、エジプト、アナトリアを占領し、イエス・キリストが架けられたとされる聖十字架を持ち去った。東ローマ皇帝ヘラクレイオスは610年にフォカスの後を継ぐと軍を起こし、失地回復を果たした。ヘラクレイオスがニネヴェの戦い (627年)でサーサーン朝軍を破りクテシフォン近くまで進軍すると、ホスロー2世は息子のカワード2世(英語版)の反乱に遭い処刑された。テュルクの軍が、ペルシア北部に大挙して侵入してきていたこともあり、カワード2世は東ローマ帝国と和平を結んで占領地をすべて返還した。聖十字架と占領地の返還を決めた条約を締結すると、ヘラクレイオスは軍を引いた。
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