東ローマによる支配
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「アルメニアの歴史」の記事における「東ローマによる支配」の解説
詳細は「東ローマ領アルメニア(フランス語版)」および「東ローマのアルメニア人(ロシア語版)」を参照 5世紀から7世紀にかけて、アルメニアはペルシアと東ローマ帝国の間で幾度も戦場と化し、国土を蹂躙された。536年には東ローマ皇帝ユスティニアヌスが東ローマ領アルメニアにおける行政職をすべて廃し、また国境を要塞化したことにより、ペルシア領アルメニアとのいかなる交流も断たれることとなった。土地貴族の自治権は剥奪され、長子相続も廃止され、アルメニアの東ローマへの同化政策が急速に進められた。焦土作戦も伴った第四次東ローマ・ペルシア戦争(英語版)の結果、東ローマの領域は591年にはセヴァン湖北西まで拡大した。東ローマにおいて被支配層に留まったアルメニア人は、トンドラク(英語版)の乱をはじめとする多数の農民反乱を巻き起こした。 しかしこれらの荒廃にもかかわらず、この時代はパヴストス・ブザンド(アルメニア語版)、ダヴィド・アンハグト(ドイツ語版)やエズニク・コグバツィ(フランス語版)、アガタンゲロス(アルメニア語版)、コリウン(フランス語版)やイェギシェ(英語版)、そして『アルメニア史(英語版)』を書いたモヴセス・ホレナツィ(英語版)など多くの作家が輩出された、歴史・神学・哲学分野におけるアルメニア文学(ロシア語版)の黄金時代でもあった。さらに、東ローマ領に移住したアルメニア人の子孫の中からは、フィリピコス・バルダネスやアルタバスドス(ドイツ語版)、レオーン5世、そしてマケドニア王朝の祖となったバシレイオス1世のように、東ローマ皇帝にまで登りつめる者も現われた。(バシレイオス1世はスラヴ人の出身と記す資料もあり、現代の歴史家はバシレイオス1世の民族期限を特定することは不可能であるとしている)そのほか、遠くクリミア半島やポーランドにまで貿易商ディアスポラとして拡散していく者も存在した。
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