重慶に「独立王国」を築く
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2007年10月の第17回党大会で中央委員に再選され、党中央政治局委員に昇格した。同年11月30日には重慶市党委員会書記に任命される。12月29日に商務部長を退任し、2008年3月には第11期全国人民代表大会重慶市代表に選出される。 薄が赴任した重慶市は、1997年に「西部開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされた都市であった。しかしながら、薄が赴任するまでの10年間は外資投資が進展しなかった。2003年までの投資総額は5億ドルに届かず、2003年から2007年の合計もわずか10億ドルだった。ところが、薄が赴任し外資導入に着手すると、2008年の外資の投資額は対前年比170%増の27億ドルとなり、翌年には39億ドルを達成した。薄は外資導入によって年16%を超える超高度経済成長をつくり上げる一方で、低所得者向けの住宅を建造して農村の居住環境を整え、都市と農地が混在する重慶市の特性を生かして発展に導き、重慶の庶民に発展の恩恵を実感させた。 その一方で貧富の格差が深刻で、腐敗した役人や警察ら権力者が威張り散らし、それに大衆の不満が臨界点に達しつつある重慶社会の危険な現実を的確に把握していた。重慶での政治実績を以て、来る第18回党大会で最高指導部である中央政治局常務委員会入りを目論む薄は、低所得者層に未だ根強い毛沢東の政治手法をまねて民衆の支持を獲得しようとした。「共同富裕」のスローガンを掲げて格差是正や平等・公平をアピールし、民衆をひきつけた。そして、大衆を動員し毛沢東時代の革命歌を歌わせる政治キャンペーン「唱紅」を展開した。「唱紅」の目的は古き良き共産党のアピールであったが、これが思わぬ懐古ブームを巻き起こし、人々から好評を得た。また、2009年6月からは犯罪組織一斉検挙キャンペーンである「打黒」を展開した。同年7月より市公安局などを巻き込んだ大規模汚職事件の摘発に乗り出し、事件の中心人物である重慶市司法局長(公安局前任副局長)の文強を初めとして1500人以上を摘発。この事件の捜査は翌年3月に終了した。薄は成果を強調したが、「行き過ぎだ」、「個人的な人気取りだ」などと批判された。改革派知識人たちは、「打黒」の過程で無罪の者を有罪にしたり、死刑に値しない者も処刑したりするなど、法を無視した捜査に最大の問題があると指摘するが、薄熙来は毛沢東が文革時に実践したように、法やルールより、大衆からの喝采を重視した。薄は「打黒」によって、自らの政敵を大衆の忌み嫌う「腐敗幹部」として徹底的に排除していったが、「打黒」によって地方の利益を壟断する黒社会・地下経済に正面からメスを入れたことで、薄が大衆から大喝采を浴びたこともまた事実である。 重慶における薄の施政は、中央の幹部にも好意的に評価する声が多かった。江沢民派(上海閥)の呉邦国(党中央政治局常務委員・全人代常務委員長)、李長春(党中央政治局常務委員)、賀国強(党中央政治局常務委員)や、同じ太子党の習近平(党中央政治局常務委員・国家副主席)などは、薄の施政を重慶モデルと称賛した。薄の施政は、行き過ぎた市場経済を追求した改革の結果、平等・公平という社会主義の本質が失われたと批判し、毛沢東時代への郷愁を前面に出している。これは胡錦濤総書記・温家宝総理が目指す「鄧小平路線の進化」と対立するものであった。薄は重慶市党委書記という立場ながら重慶市の武装警察だけでなく成都軍区の人民解放軍にも影響力を及ぼす形で胡温体制と対峙し、重慶を独立王国と化していった。
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