政治局常務委員・国家副主席
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 22:15 UTC 版)
「曽慶紅」の記事における「政治局常務委員・国家副主席」の解説
その一方で江沢民の息のかかった「上海閥」を次々に昇進させている。自らも1997年の第15回党大会で党中央政治局委員候補に選出され、党中央組織部長として党内の人事権を握った。2002年の第16回党大会では政治局常務委員に就任し、中央書記処常務書記、中央党校校長などの要職を兼務、対香港・澳門政策を担当した。この党大会で総書記に就任した胡錦濤は、江沢民政権下でこれらの職務を経て総書記に昇格したため、胡錦濤の次の総書記は曽慶紅と見られていた。 2003年3月に江沢民が国家主席を胡錦濤に譲ると、曽慶紅は江沢民系「上海閥」の代表として国家副主席に就任した。胡錦涛は鄧小平が生前、将来の党総書記・国家主席に指名していた人物で、江沢民の系列では無い。代理人である曽慶紅を通じて影響力を行使しようとする江沢民と新国家主席である胡錦濤の綱引きがしばらく続いた。 中国共産党の最高意思決定機関である政治局常務委員9人のうち、曽慶紅・呉邦国・賈慶林・黄菊・李長春の5人が江沢民系であり、胡錦涛の指導力は発揮しにくいと予想されたが、胡錦涛は政権発足直後の2003年に発生したSARS問題で陣頭指揮をとり、果断な指導力を発揮した。この事件によって胡錦涛の実力が認められ、2004年9月に江沢民は党中央軍事委員会主席も胡錦濤に譲った。胡錦濤が占めていた中央軍事委員会副主席の地位には曽慶紅が就任すると見られていたが、胡錦涛系の徐才厚が任命された。 これで江沢民に見切りをつけた曽慶紅は胡錦濤と接近していく。天安門事件によって総書記を解任され、その後軟禁状態にあった趙紫陽が2005年に死去したが、曽慶紅はその臨終に駆けつけた。また、天安門事件のきっかけを作った胡耀邦総書記の生誕90周年記念座談会を主催し、趙紫陽の失脚の受益者である江沢民や李鵬首相らの反発を招いた。さらに、上海閥の次世代の領袖候補だった陳良宇の汚職問題で、刑事処分の決定に積極的に反対しなかったため、江沢民との間に溝を作っている。 2007年9月の第17回党大会を前に、賈慶林の後任として全国政治協商会議主席に就任するのでは無いかとの観測があがった。当時68歳だった曽慶紅は党大会の秘書長を務めたが、このポストを引退予定者が就いた例は近年にはなく、少なくとも政治局常務委員を続投するものと見られていた。しかし、中央委員の名簿に曽慶紅の名前は無く、引退することが判明する。かつて曽慶紅が自分と同じ68歳の李瑞環降ろしに動き、長老の不興を買っていたため引退が決定したとされる。2008年3月15日の全人代で正式に引退。後任の国家副主席には曽慶紅がバックアップを行い、「慶紅兄さん」と呼び慕っていた太子党の習近平が就任した。
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