政治工作による勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/11 01:41 UTC 版)
「パルデン・トンドゥプ・ナムゲル」の記事における「政治工作による勝利」の解説
即位後初の選挙となる1967年の参事院(State Council、立法府に相当)選挙では、移住民ながら多数派のネパール系住民主体で、民主主義導入を求めて反王室・反印の姿勢を示していたシッキム国民会議派(SNC)が選挙議席18議席中8議席を獲得して第1党となった。これに不快感を覚えたパルデン・トンドゥプはSNCに党内分裂をもたらそうと画策し、内閣に相当する行政参事会委員の就任につき総裁のカジ・レンドゥプ・ドルジではなく、幹事長ビーム・バハドゥル・グルン(B.B.Gurung、通称「B.B.グルン」)を委員に一方的に抜擢した。パルデン・トンドゥプの目論見通り、同年9月にSNCは反王室派のドルジ派と親王室派のグルン派にあっけなく分裂することになった。これ以降、パルデン・トンドゥプは、シッキム独立のためのインド・シッキム条約改正を求める路線を更に強化し、在野でも国王の反印・シッキム独立路線を支持する運動が激化していった。 1970年4月の第4回参事院選挙では、上記のパルデン・トンドゥプの外交路線が大きな焦点となり、親印に転じていたSNCだけが主要政党の中で唯一その路線に反対していた。選挙の結果、内部分裂の影響も加わる形でSNCは5議席で第2党にとどまった。一方、原住民・支配階層ながら少数派のレプチャ・ブティヤ系住民を主体とする親王室派のシッキム国民党(SNP)が7議席を獲得して第1党となる。ネパール系ながら同じく親王室派のシッキム国家会議派(SSC)も4議席を獲得して親王室派が11議席を占める勝利となった。更に選挙後にSNCが国王批判を行った機をとらえ、パルデン・トンドゥプは総裁カジ・レンドゥプ・ドルジを扇動罪に問いインドへ亡命せしめ、SNCの党勢を大きく削いだ。 ところが反印・シッキム独立を追求する国王の路線は、支配階層であるブティヤ・レプチャ系住民へのネパール系住民の恐怖を掻き立てるものでもあった(前者が武装して後者を攻撃するのではないかとの恐れにまで至っていた)。親王室派だったSSCもこの種の恐怖感を抱いた結果、ついに結党当初の反王室路線へと回帰していく(SSC結党の経緯については当該記事を参照)。ここでSSCは、同じネパール系の政党であるシッキム人民党(SJP)に呼びかけ、1972年8月15日に両者は合併、シッキム人民会議派(SJC)を結成したのである(正式発足は10月26日)。これにより、シッキムにおいて有望な反王室政党が出現することになった。 しかしSJCはSNCとは異なり反印姿勢を示したため、パルデン・トンドゥプだけでなくインド政府もSJCに不快感を示した。そこでインド政府はパルデン・トンドゥプと交渉し、SJCの勢いを削ぐためと説得してカジ・レンドゥプ・ドルジの帰国・大赦を認めさせた。こうしてインドの力を借りてドルジは帰国し、SNCは体勢を立て直すことになった。このような情勢の中で1973年1月の第5回参事院選挙が実施される。コミュナル選挙制度の恩恵もあって、親王室派のSNPが11議席を獲得して圧勝する。SNCとSJCは相討ちする形で、それぞれ5議席、2議席にとどまった。
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