政治思想と言動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:19 UTC 版)
「セシル・B・デミル」の記事における「政治思想と言動」の解説
第二次世界大戦後、アメリカや西側諸国を席巻した所謂「赤狩り」の中、デミルはそのシンパとして積極的に働き、ハリウッド・ブラックリストの作成にも大きく関与した。一方、同じく保守派、愛国主義者で知られる映画監督ジョン・フォードは、赤狩りの影響を受けなかったが、当時の戦後特有の反動的な風潮や、それに盲信的に迎合するデミルのこうした動きを忌み嫌った。 1950年、全米監督協会で評議員の立場にあったデミルは「映画の撮影中に関係者全員の政治的傾向について何か気付いたり、知り得た場合は包み隠さず監督協会に報告する」との規定を設けるよう提案し、自分に反目する当時の会長ジョーゼフ・L・マンキーウィッツがたまたまヨーロッパ旅行中で不在だったのを見計らい、同調する協会員を懐柔するため画策し、これを通すとともに会長不信任案を提出。無論マンキーウィッツ側も黙っておらず、フレッド・ジンネマン、ジョージ・スティーヴンスらの支援を受け、デミル擁護派と真っ向対立し、同年10月22日に緊急総会が招集された。 深夜まで紛糾したこの席上、それまで態度を表明していなかったフォードが発言、「私の名前はジョン・フォード、ウェスタンを撮っている者です。アメリカの観客全員がデミルをどれほど深く愛しているかはよく存じている。」と挨拶した後、デミルを凝視しながら「だがデミルの発言と今夜の振舞いは気に入らない。私としてはマンキーウィッツに信任の一票を投じたい。そして早く家に帰って眠ろうじゃないか。みんな明日には撮影を控えているんだろう?」と名指しでデミルを非難。普段寡黙なフォードの一言は大きく影響し、マンキーウィッツの会長留任が採決され、デミルの提案は却下。協会評議員の地位を追われる結果となった。
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