コーンウォリス対ラファイエット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:52 UTC 版)
「ヨークタウン方面作戦」の記事における「コーンウォリス対ラファイエット」の解説
両カロライナにおけるイギリス軍の脅威に対抗するために、ワシントンは部下の中で最良の戦略家の一人であるナサニエル・グリーン少将を、キャムデンの戦い後に崩壊していたノースカロライナの大陸軍再建のために派遣した。南部のイギリス軍を率いていたコーンウォリス将軍はグリーン軍と戦ってカロライナの支配権を得ることを望んだ。グリーンはその少ない軍勢をさらに2つに分けて、ダニエル・モーガンに1隊を任せ、サウスカロライナのナインティシックスにあったイギリス軍の基地を脅かさせた。コーンウォリスはバナスター・タールトンにモーガンの後を追わせたが、1781年1月のカウペンスの戦いで、モーガンはタールトンの部隊をほぼ壊滅させ、その過程でタールトンをもう少しで捕まえるところまでいった。この戦闘の後でいわゆる「ダン川への競争」と呼ばれてきたものが起こった。コーンウォリスはグリーンとモーガンの部隊が再集結する前に2つの部隊を捕まえようとしてこれらを追わせた。グリーン隊がうまくダン川を渡り、バージニアに入ったとき、配下の兵士に携行品の大半を置いて来させていたコーンウォリスは追跡を諦めた。しかし、援軍と物資の補給を受けたグリーン軍は再度ダン川を渡り、グリーンズボロに戻ってコーンウォリスに戦いを挑んだ。このギルフォード郡庁舎の戦いでコーンウォリスは勝利したが、グリーンはその勢力を保ったまま後退することができた。イギリス軍はかなりの損失を出していたので、コーンウォリスは援軍と物資補給のためにウィルミントンまでの撤退を強いられた。これを見たグリーンはサウスカロライナとジョージアに進んでその大半の支配権を回復した。コーンウォリスは命令違反を犯していたが、クリントン将軍からの戦略的な指示も無かったので、このとき1,400名に過ぎなかった部隊を4月25日にバージニアに進ませる決断をした。これはフィリップスとフォン・ストイベンがブランドフォードで戦ったのと同じ日だった。 フィリップスはリッチモンドでラファイエットに敗北した後、東に転じてその地域の軍事と経済の標的の破壊を続けた。5月7日、フィリップスは部隊を集結させるためにピーターズバーグに向かへというコーンウォリスからの命令を受け、その3日後にピーターズバーグに到着した。ラファイエットはそこのイギリス軍陣地を短時間砲撃したが、実際に攻撃を仕掛けるには自軍の勢力が足りないと考えた。5月13日、フィリップスが熱病で死亡し、アーノルドが指揮を引き継いだ。アーノルドは特に人望があるわけではなかったので、兵士達の間に不平が生まれた。この時点でコーンウォリスの部隊を待ちながら、アーノルドとラファイエットの部隊は対峙を続けた。アーノルドはラファイエットとの対話を試みたが、ラファイエットはワシントン将軍からアーノルドを捕まえ次第絞首刑にするよう命令されていたので、アーノルドの書状を開封せずに返却した。コーンウォリス隊が5月19日にピーターズバーグに到着したので、このとき大陸軍兵1,000名と民兵2,000名で構成されていたラファイエット隊はリッチモンドまで後退した。その後間もなくニューヨークからアンスバッハのフォン・ボイト大佐が援軍を率いてイギリス軍に合流し、コーンウォリス軍は7,000名以上になった。 コーンウォリスはアーノルドをニューヨークに戻した後、クリントン将軍からフィリップスに出されていた命令に従って行動した。その指示は防御を施した基地を構築し、バージニアの軍事と経済の標的を襲撃することだった。コーンウォリスは先ずラファイエットからの脅威を取り去る必要性があると判断し、ラファイエット隊の追跡に出発した。ラファイエット隊は明らかに劣勢だったので、急速にフレデリックスバーグにまで後退し、そこの重要な補給倉庫を守ることにした。フォン・ストイベンはポイント・オブ・フォーク(現在のバージニア州コロンビア)まで後退し、イギリス軍襲撃まえに後方に送っていた物資を集めた。コーンウォリスは6月1日にハノーバー郡庁舎に到着し、全軍でラファイエット隊を追うのではなく、バナスター・タールトンとジョン・グレイブス・シムコーのそれぞれに襲撃隊を組織させて派遣した。 カウペンスの戦いでそのブリティッシュ・リージョン隊が激減させられていたタールトンは小部隊と共に急速にシャーロッツビルに向かい、バージニア議会議員数人を捕まえた。ジェファーソン知事も捕まえるところだったが、モンティチェロにあるジェファーソンの屋敷でワイン数本を得たことで満足するしかなかった。シムコーはポイント・オブ・フォークに行ってフォン・ストイベンや物資倉庫を狙った。6月5日、短時間の戦闘でフォン・ストイベンの部隊約1,000名は30名の損失を出したが、物資の大半を持って川向こうに撤退した。シムコーは約300名しか率いていなかったので、宿営地では数多くの火を焚かせてその勢力を大きく見せるようにした。このことでフォン・ストイベンはポイント・オブ・フォークから撤退し、翌日シムコーは残っていた物資を破壊した。 一方、ラファイエットは到着の遅れていた援軍が到着するのを期待していた。アンソニー・ウェイン准将が率いるペンシルベニア大陸軍の数個大隊が2月に大陸会議からバージニアでの任務を承認されていた。しかし、ウェインは1月に起こった軍隊内反乱の後始末をする必要があった。この暴動は戦力としてのペンシルベニア・ラインをほとんど無力化していた。ウェインがこのラインを再構築し、バージニアへの行軍を始めたのは5月になってからだった。この時でもウェインとその部下の兵士の間には不信感が残っていた。ウェインは自分の弾薬と銃剣が必要ないときは鍵をかけて蔵っておく必要があった。ウェインは5月19日には既に出発の用意ができていたが、隊員の給与が価値が下がったコンティネンタル・ドルで払われた後に暴動が再燃する恐れが出てきたので、部隊の出発は1日遅れた。ラファイエット隊とウェインの部隊800名は6月10日にラッパハノック川のラクーン渡しで合流した。その数日後、ウィリアム・キャンベルの率いる民兵隊1,000名によってさらに補強された。 シムコーとタールトンの襲撃が成功した後、コーンウォリスは東のリッチモンドとウィリアムズバーグに進行し、その過程でラファイエット隊のことはほとんど無視していた。ラファイエットはその勢力が約4,500名となり、自信を取り戻していたので敵軍への接近を始めた。6月25日にコーンウォリス隊がウィリアムズバーグに到着した時までに、ラファイエット隊は10マイル (16 km) 離れたバード酒場の位置にいた。その日、ラファイエットはシムコーのクィーンズレンジャーズ隊がイギリス軍本隊から分かれた小数勢力であることを知って、騎兵と歩兵を幾らか送ってシムコー隊の動きを阻止しようとした。その結果で起こったスペンサー・オーディナリーでの小競り合いは両軍が互いに本隊と至近距離にあると考えていて起こったものだった。
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