コーンウォリスへの指揮権委譲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/05 08:54 UTC 版)
「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「コーンウォリスへの指揮権委譲」の解説
これら一連の戦闘で、南部の大陸軍は組織だった作戦行動をできなくなった。しかしそれぞれの植民地政府は機能し続け、戦争はフランシス・マリオンなどのパルチザン活動によって続けられた。クリントン将軍は南部の指揮をコーンウォリス卿に委ねた。大陸会議はサラトガでの勝利者であるホレイショ・ゲイツ将軍を新たな部隊と共に南部に送った。しかし、ゲイツは1780年8月16日、キャムデンの戦いで大陸軍始まって以来の大敗を喫し、コーンウォリスにノースカロライナに進軍する道を与えてしまった。南部における戦争のこの段階では、アメリカ側が著しい退潮になった。 しかし、コーンウォリスにも事態が変わり始めた。10月7日、キングスマウンテンの戦いで彼の一翼を担っていた部隊が完敗した。この戦いはロイヤリスト民兵と愛国派民兵の戦いだった。イギリス軍はノースカロライナで大きなロイヤリスト軍を作ろうと思っていたが、その計画が挫折した。志願してくるロイヤリストの数が減り、志願してきた者もイギリス軍がいなくなると覚束ないものになった。キングスマウンテンの結果とサウスカロライナ民兵による打ち続くその通信線や供給線に対する嫌がらせ攻撃によってコーンウォリスはサウスカロライナで冬季宿営を張るしかなくなった。 ゲイツは罷免され、ジョージ・ワシントンの一番の片腕ナサニエル・グリーン将軍が南部の指揮を執った。グリーンは、ダニエル・モーガン将軍に約1,000名の兵士を預けた。モーガンは1781年1月17日、カウペンスの戦いで、タールトンの部隊を打ち砕いた優れた戦術家である。コーンウォリスはキングスマウンテンの後と同様に、その軍隊の一部を適切な支援も無しに派遣したことで批判された。グリーンは、「ダンへの競争」(ノースカロライナとバージニアの境界に接近して流れるダン川に因んで名付けられた)と呼ばれる一連の小競り合いや軍事行動(ギルフォード郡庁舎の戦い、ホブカークスヒルの戦い、ナインティシックスの戦い、ユートースプリングスの戦い)によって敵軍の消耗を謀った。これらの戦いは、戦術的にはイギリス軍の勝利だったが、戦略的には何ももたらさなかった。コーンウォリスはグリーンがその軍隊を分割していることを知っており、モーガンとグリーンの部隊が再結合する前にどちらかの部隊と会戦を挑みたかったが、迅速に行動する愛国者達を追跡する中で、自軍の過剰な物資を全て捨てて行った。グリーンがコーンウォリスのこの決断を知った時、その嬉しげな反応は「それなら彼はわれ等のものだ!」だった。コーンウォリス軍の物資が欠乏したことは後の困難な状況に陥ったときに決定的な役割を果たすことになった。 グリーン将軍はまずウィリアム・リー・ダビッドソンに900名の部隊を付けて派遣したコーワンズフォードでコーンウォリスと対戦した。この戦闘はダビッドソンが川で戦死したときに終わりかけ、その後に大陸軍が撤退した。グリーンの戦力は弱まったが、その後も遅延戦術を貫き、コーンウォリスとその士官達に対してノースカロライナとサウスカロライナで数多い小競り合いを続けた。これらの戦闘で約2,000名のイギリス兵が戦死した。グリーンは後に有名となるモットー「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」という言葉でその行動を要約した。その戦術は緩りとした消耗戦でカルタゴのハンニバルの優勢な軍隊を倒したクィントゥス・ファビウス・マクシムスの採ったファビアン戦略に似ていた。最後にグリーンはノースカロライナのグリーンズボロでコーンウォリスと直接対決できるだけの戦力を感じ取った。コーンウォリスはギルフォード郡庁舎の戦いで戦術的な勝利を挙げたものの、そのときの損失のために補給と援軍を求めてウィルミントンまでの撤退を強いられた。 コーンウォリスはグリーンの軍隊を完璧に打ち破ることもできないでいるうちに、大陸軍への物資の大半がこの時点までまだ手を付けていないバージニアから送られてきていることが分かった。コーンウォリスはクリントンの意に反し、カロライナへの補給線を抑えることで、大陸軍の反攻を封じ込められると期待して、バージニアへ侵攻することにした。この考え方は本国のジャーメイン卿の一連の手紙では支持されていた。このことは、全軍の事実上の総指揮官であったクリントンを南部軍の意志決定の埒外に置いたことになった。クリントンに情報を送ることもなく、コーンウォリスはバージニアでの襲撃作戦のためにウィルミントンから北へ向かった。バージニアでは、その地域の襲撃に携わっていたウィリアム・フィリップスとイギリスに寝返っていたベネディクト・アーノルドが指揮する部隊と会することができた。 コーンウォリスがグリーンズボロを離れてウィルミントンに動くと、グリーンにとってはサウスカロライナの再制圧を始める道が開けた。4月25日にホブカークスヒルの戦い(カムデンからは2マイル (3 km) 北)でフランシス・ロードンの反撃もあったが、グリーンはこれを6月の終わりまでに成し遂げた。5月22日から6月19日まで、ナインティシックスの町を包囲していたが、ロードンが包囲を解くために部隊を率いて来ているとの報に接して包囲を諦めた。しかし、グリーンとフランシス・マリオンのような民兵隊指揮官の行動で、最終的にはロードンにナインティシックやカムデンの町を放棄させ、サウスカロライナのチャールストン港までの支配を弱めさせることになった。オーガスタの町も5月22日に包囲され、6月6日にはアンドリュー・ピケンズやライトホース・ハリー指揮下の愛国者軍の手に落ち、イギリス軍によるジョージアのサバンナ港までの支配を弱めさせることになった。 グリーンはサンテー川のハイヒルズで部隊に6週間の休暇を与えた。9月8日、ユートースプリングスの戦いでアレクサンダー・スチュワート中佐指揮のイギリス軍とあいまみえた。この戦いで倒れた兵士達を、アメリカの作家フィリップ・フレニューが1781年の詩「勇敢なアメリカ人の記念に」で称えている。この戦闘は戦術的には引き分けだったが、イギリス軍の戦力は弱まり、チャールストンに撤退した。グリーンは戦争の残りの数ヶ月イギリス軍をそこに釘付けにした。
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