ファビアン戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:52 UTC 版)
「アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事における「ファビアン戦略」の解説
ローマが軍団を編制し、政治的/宗教的行事を行っているとき、ハンニバルはハルティアからゆっくりと南下していた。この行軍の間に、軍は休息し、健康を回復し、再訓練を行い、装備を充実させ、穀物、家畜、食料等を集めた。西に方向を転じるまで沿岸の平地に沿って行軍した。アルピ(en、現在のフォッジャの北方5マイル)近くでファビウス率いるローマ軍はカルタゴ軍と接触し、カルタゴ軍野営地から6マイル離れたアイカ(現在のトローイア)に野営した。ハンニバルは軍を整列させ戦闘を求めたが、ファビウスはこれを無視して野営地から出なかった。ファビウスの計画はローマ人に忍耐を要求することであり、これはファビウスの政治生命も傷つける可能性もあったが、後世の歴史家はハンニバルの危機に対するものとしては最も堅実なものであったと評価している。 それから数ヶ月、ファビウスは後世に「ファビアン戦略」として知られる持久戦略をとりつづけ、「のろま」(クンクタートル)と呼ばれるようになった。ハンニバルの挑発にも関わらずローマ軍は常に会戦を拒否し、距離をとって、またカルタゴ軍騎兵がその優位性を生かせないよう高地に位置取り、常にカルタゴ軍を影のように追っていった。ローマ軍は常にカルタゴ軍が攻撃できないような場所に野営し、軽歩兵と騎兵からなる遊撃隊が食料調達部隊を守っていた。カルタゴの食料調達隊と脱落兵を見つけた場合は可能であれば倒すこととした、この戦略では、カルタゴ軍がローマ同盟都市を略奪し破壊するのを阻止することはできなかったが、ローマ軍は貴重な戦闘経験を身につけつつも、無傷のままであった。ファビウスはまた同盟都市がカルタゴ側に付かないように介入工作を実施した。この戦略は紀元前217年の夏中続けられたが、この間ローマの経済資産の多くが破壊される結果となり、ローマ市民の忍耐も限界に達した。
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