ファビウス氏族の壊滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 03:17 UTC 版)
「ファビウス氏族」の記事における「ファビウス氏族の壊滅」の解説
詳細は「クレメラ川の戦い (紀元前477年)」を参照 ウェイイは大打撃を受けたがローマと講和を行わず、ゲリラ戦を継続した。すなわちローマの領土で盛んに略奪を行うが、ローマ軍が編成され近づいてくると、戦わず都市に立て篭もってしまうのである。当時はアエクィ人やウォルスキ人がローマの隙をうかがっており、サビニ人やエトルリア人もローマに対して敵意を抱いているため、ウェイイのみに専念することができなかった。これを憂慮したカエソ・ファビウスは驚くべき宣言をする。ローマ軍を動かすことなく、ファビウス氏族だけで軍を編成し、ファビウス氏族の私費でウェイイと戦争を行うとしたのだ。この決断は全ローマ市民が賞賛し、ファビウス氏族の名声は最高潮に達した。 306人のファビウス氏族と4000人のクリエンテスはウェイイとローマの境界線付近に陣取った。そしてウェイイの略奪を防ぎ、何度かウェイイの軍勢と会戦を行いこれに勝利する。一氏族の私費の軍隊に負けたという屈辱はウェイイを怒らせ、彼らは計略を用いてこれを壊滅させようと考えた。それからしばらくの間、ファビウス氏族が現れるとウェイイ軍は無様に逃げ回り、ファビウス氏族が略奪を始めると偶然を装って家畜の群れを捕まえさせるなどといったことが続いた。これによってファビウス氏族は増長し、ローマから遠く離れたところまで略奪を行うようになった。ある日、いつものように略奪行に出ているときに家畜の大群を発見。家畜はすぐに散り散りになって逃げ始めたので、ファビウス氏族は隊列を崩してこれを捕らえ始める。だが家畜を追うのに夢中になっているうちに、彼らはエトルリア人の伏兵に完全に包囲されていた。ファビウス氏族は必死に楔形陣形をとりなんとか包囲を突破して丘に陣をはったが、そのときウェイイ軍の本隊が突然背後から現れて襲い掛かり、その場でファビウス氏族の306人は一人残らず戦死した。 この出撃の際にファビウス氏族はカルメンタリスの門(ローマのカピトリヌスの丘の南西隅にあった)を通ったため、これ以降ここは「不幸の通路」と呼ばれるようになった。しかし、ファビウス氏族はこのときたった一人の幼い男子(後に紀元前467年、紀元前465年、紀元前459年の執政官を務めるクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌス)が残っており、辛うじて血脈を繋ぐ事が出来たのだった
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