ファビウス氏族とウェイイの戦争とは? わかりやすく解説

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ファビウス氏族とウェイイの戦争(紀元前483年-紀元前476年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:38 UTC 版)

ローマ・エトルリア戦争」の記事における「ファビウス氏族とウェイイの戦争(紀元前483年-紀元前476年)」の解説

詳細は「ウェイイとの戦い (紀元前480年)」を参照 詳細は「クレメラ川の戦い (紀元前477年)」を参照 詳細は「ヤニクルムの丘の戦い」を参照 紀元前483年から紀元前476年にかけて、ウェイイエトルリア人都市同盟し、再びローマ戦争仕掛けたローマ側ではファビウス氏族活躍したが、後半ウェイイファビウス氏族戦争様相を呈するローマはこの戦争にも勝利したリウィウスは、紀元前483年時点において、ローマ自身戦力は十分以上であると考え、ほとんど戦争関心示さず内部問題プレブスパトリキ不和)に集中していたとしている。しかしながら紀元前482年になるとウェイイ軍はローマ領への侵入開始し田園部の略奪行った。翌紀元前481年にはローマ包囲したローマ軍司令官執政官スプリウス・フリウス・メドゥッリヌス・フススであったが、この年特筆すべきことはなかった。 紀元前480年プレブスパトリキ争いはさらに悪化しており、ウェイイローマ勝利する希望与えたウェイイにはエトルリア都市国家同盟して支援していた。 執政官マルクス・ファビウス・ウィブラヌスとグナエウス・マンリウス・キンキナトゥスは、兵士訓練不足であるということから戦場出さないでいたが、エトルリア騎兵繰り返し略奪行ったことにより戦闘避けられなくなったファビウスは「兵達が勝利者として戻ってくると神に誓わない限り、私は出撃命令出さないと言った一度戦闘が始まると、ローマ軍指揮官達は勇敢に戦い、特に執政官の兄であるクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスは戦死した戦列反対側で戦っていたマンリウスは重症負い、一旦戦線離れざるを得なかった。マンリウスの兵が崩壊しそうになったときに、マルクス・ファビウスが到着し、マンリウスが死んでいないことを告げた。マンリウスも再び戦場戻り兵士達を安心させた。 優勢となったエトルリア軍はローマ軍野営地攻撃し予備兵力の防御打ち破って突入した。これを聞いたマンリウスは、彼の兵を野営地出口配置しエトルリア兵を包囲した逆に窮地陥ったエトルリア軍は脱出試み、マンリウスの本営突撃をかけ、さらに弓矢反撃した。この最後突撃でマンリウスは圧倒され致命傷負ったローマ軍は再びパニックとなったが、士官一人がマンリウスの体を動かし、あえてエトルリア兵に脱出路を与えた脱走するエトルリア兵をファビウス追撃し撃破した戦闘ファビウス大勝利終わったが、兄や多く同僚失ったことは大打撃であり、元老院凱旋式提案したファビウスはこれを辞退した紀元前479年ウェイイとの戦争執政官ティトゥス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルス担当しもう一人執政官カエソ・ファビウス・ウィブラヌスアエクイ族侵入対処することとなった。ウェルギニウスはあまりにも軽率であり、彼の軍はほとんど撃滅されそうになったが、アエクイ族勝利したファビウス駆けつけたために難を逃れることができた。 ローマ多方面に敵を抱えていたため、同年ファビウス氏族元老院に対してウェイイとの戦争軍事的に資金的にも彼らの氏族だけで行うことを提案した元老院はこれを感謝をもって受け入れ市民ファビウスの名を讃えた。翌日ファビウス一族武備整え執政官含めて306名のファビウス氏族ローマ市内を行進し、カルメンタリス門(英語版)(二つの門があった)の右側から出陣したその後北に向かい、クレメラ川(英語版)に野営地築き防御強化した紀元前478年ファビウス軍はウェイイ領土略奪成功したウェイイエトルリアから軍を集め、クレメラ川沿いファビウス野営地攻撃包囲した執政官ルキウス・アエミリウス・マメルクス救援駆けつけローマ軍騎兵突撃によりウェイイ軍を撤退させた。ウェイイ軍はサクサ・ルブラ(英語版)まで後退し和平求めてきた。 紀元前477年、再び両者敵意高まりファビウス軍のウェイイ領土侵攻、あるいはその逆と戦闘激化していった。ウェイイ軍はクレメラ川の戦いで待ち伏せ攻撃成功しファビウス軍は全滅する若年のためにローマに留まっていたクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスのみが、たった一人ファビウス氏族生き残りとなった。 この大敗北を聞いてローマ執政官ティトゥス・メネニウス・ラナトゥスを軍と共に送った。しかしローマ軍は再び敗北するウェイイ軍はローマ進軍しヤニクルムの丘占領した元老院は、ウォルスキ族戦っていたもう一人執政官ガイウス・ホラティウス・プルウィッルス呼び戻し2つ戦いが行われるが決着はつかなかった。最初の戦いはプラエネスティーナ門近くスペース神殿英語版近く発生しもう一つはコリナ門(英語版近く戦われた。 翌紀元前476年になってウェイイ軍はヤニクルムの丘占拠し続けローマ食料不足危機陥ったこのため執政官アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルススプリウス・セルウィリウス・ストルクトゥスウェイイ軍を攻撃することとしウェイイ軍もローマ覇権覆すことを期待してこれを受けた戦い激戦となり、最終的にローマ軍勝利してウェイイ軍は撤退した。しかしその損害大きさのために両執政官凱旋式実施できず、執政官ストルクトゥスは戦い不手際理由告訴された。

※この「ファビウス氏族とウェイイの戦争(紀元前483年-紀元前476年)」の解説は、「ローマ・エトルリア戦争」の解説の一部です。
「ファビウス氏族とウェイイの戦争(紀元前483年-紀元前476年)」を含む「ローマ・エトルリア戦争」の記事については、「ローマ・エトルリア戦争」の概要を参照ください。

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