ファビウス氏族とウェイイの戦争(紀元前483年-紀元前476年)
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「ローマ・エトルリア戦争」の記事における「ファビウス氏族とウェイイの戦争(紀元前483年-紀元前476年)」の解説
詳細は「ウェイイとの戦い (紀元前480年)」を参照 詳細は「クレメラ川の戦い (紀元前477年)」を参照 詳細は「ヤニクルムの丘の戦い」を参照 紀元前483年から紀元前476年にかけて、ウェイイはエトルリア人都市と同盟し、再びローマに戦争を仕掛けた。ローマ側ではファビウス氏族が活躍したが、後半はウェイイとファビウス氏族の戦争の様相を呈する。ローマはこの戦争にも勝利した。 リウィウスは、紀元前483年の時点において、ローマは自身の戦力は十分以上であると考え、ほとんど戦争に関心を示さずに内部の問題(プレブスとパトリキの不和)に集中していたとしている。しかしながら、紀元前482年になるとウェイイ軍はローマ領への侵入を開始し、田園部の略奪を行った。翌紀元前481年にはローマを包囲した。ローマ軍の司令官は執政官スプリウス・フリウス・メドゥッリヌス・フススであったが、この年に特筆すべきことはなかった。 紀元前480年、プレブスとパトリキの争いはさらに悪化しており、ウェイイにローマに勝利する希望を与えた。ウェイイにはエトルリアの都市国家が同盟して支援していた。 執政官マルクス・ファビウス・ウィブラヌスとグナエウス・マンリウス・キンキナトゥスは、兵士が訓練不足であるということから戦場に出さないでいたが、エトルリア騎兵が繰り返し略奪を行ったことにより戦闘は避けられなくなった。ファビウスは「兵達が勝利者として戻ってくると神に誓わない限り、私は出撃命令を出さない」と言った。 一度戦闘が始まると、ローマ軍の指揮官達は勇敢に戦い、特に執政官の兄であるクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスは戦死した。戦列の反対側で戦っていたマンリウスは重症を負い、一旦戦線を離れざるを得なかった。マンリウスの兵が崩壊しそうになったときに、マルクス・ファビウスが到着し、マンリウスが死んでいないことを告げた。マンリウスも再び戦場に戻り、兵士達を安心させた。 優勢となったエトルリア軍はローマ軍野営地を攻撃し、予備兵力の防御を打ち破って突入した。これを聞いたマンリウスは、彼の兵を野営地の出口に配置し、エトルリア兵を包囲した。逆に窮地に陥ったエトルリア軍は脱出を試み、マンリウスの本営に突撃をかけ、さらに弓矢で反撃した。この最後の突撃でマンリウスは圧倒され、致命傷を負った。ローマ軍は再びパニックとなったが、士官の一人がマンリウスの体を動かし、あえてエトルリア兵に脱出路を与えた。脱走するエトルリア兵をファビウスが追撃し撃破した。 戦闘はファビウスの大勝利に終わったが、兄や多くの同僚を失ったことは大打撃であり、元老院は凱旋式を提案したがファビウスはこれを辞退した。 紀元前479年、ウェイイとの戦争は執政官ティトゥス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルスが担当し、もう一人の執政官カエソ・ファビウス・ウィブラヌスはアエクイ族の侵入に対処することとなった。ウェルギニウスはあまりにも軽率であり、彼の軍はほとんど撃滅されそうになったが、アエクイ族に勝利したファビウスが駆けつけたために難を逃れることができた。 ローマは多方面に敵を抱えていたため、同年ファビウス氏族は元老院に対して、ウェイイとの戦争は軍事的にも資金的にも彼らの氏族だけで行うことを提案した。元老院はこれを感謝をもって受け入れ、市民もファビウスの名を讃えた。翌日、ファビウス一族は武備を整え、執政官も含めて306名のファビウス氏族がローマ市内を行進し、カルメンタリス門(英語版)(二つの門があった)の右側から出陣した。その後北に向かい、クレメラ川(英語版)に野営地を築き防御を強化した。 紀元前478年、ファビウス軍はウェイイに領土の略奪に成功した。ウェイイはエトルリアから軍を集め、クレメラ川沿いのファビウス軍野営地を攻撃・包囲した。執政官ルキウス・アエミリウス・マメルクスが救援に駆けつけ、ローマ軍騎兵の突撃によりウェイイ軍を撤退させた。ウェイイ軍はサクサ・ルブラ(英語版)まで後退し、和平を求めてきた。 紀元前477年、再び両者の敵意が高まり、ファビウス軍のウェイイ領土侵攻、あるいはその逆と戦闘は激化していった。ウェイイ軍はクレメラ川の戦いで待ち伏せ攻撃に成功し、ファビウス軍は全滅する。若年のためにローマに留まっていたクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスのみが、たった一人のファビウス氏族の生き残りとなった。 この大敗北を聞いて、ローマは執政官ティトゥス・メネニウス・ラナトゥスを軍と共に送った。しかしローマ軍は再び敗北する。ウェイイ軍はローマに進軍し、ヤニクルムの丘を占領した。元老院は、ウォルスキ族と戦っていたもう一人の執政官ガイウス・ホラティウス・プルウィッルスを呼び戻し、2つの戦いが行われるが決着はつかなかった。最初の戦いはプラエネスティーナ門近くのスペース神殿(英語版)近くで発生し、もう一つはコリナ門(英語版)近くで戦われた。 翌紀元前476年になってもウェイイ軍はヤニクルムの丘を占拠し続け、ローマは食料不足の危機に陥った。このため、執政官アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルスとスプリウス・セルウィリウス・ストルクトゥスはウェイイ軍を攻撃することとし、ウェイイ軍もローマの覇権を覆すことを期待してこれを受けた。戦いは激戦となり、最終的にローマ軍が勝利してウェイイ軍は撤退した。しかしその損害の大きさのために両執政官は凱旋式を実施できず、執政官ストルクトゥスは戦いの不手際を理由に告訴された。
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