日本、徳島からみた被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 04:57 UTC 版)
「徳島大空襲」の記事における「日本、徳島からみた被害」の解説
徳島に襲来した爆撃機数は、爆撃を受けた57の中小都市のうち14位とされている。また、投下された焼夷弾の総量は12位である。徳島市に投下された焼夷弾は、354,664本と膨大であり、1944年の徳島市の人口が115,508人であったため、市民一人当たり3.07本の焼夷弾が投下された計算となる。アメリカ軍は徳島への爆撃のために「爆撃用航空写真地図」を作成し、標的範囲の中心点は当時の徳島市最大の商店街であった元町付近であった。攻撃側はここを「M.P.I」(Mean Point of Impact) と呼んでいた。 空襲当日、日本資糧工業株式会社の宿直者が社長に報告した「工場罹災報告書」(徳島県立博物館蔵)によると、アメリカ軍の作戦任務報告書とほとんど一致しており、徳島側から見た数少ない極めて貴重な資料である。その内容を以下に示す。『四日一時頃、徳島侵入ノ敵機ハ、前川・佐古付近ニ最初ノ焼夷弾投下ト同時ニ、空襲警報発令。漸次侵入ノ後続機ノ投弾ハ、益々熾烈ニシテ、全市ニ火災発生。約三時頃迄、敵機旋回、投弾ヲ絶タズ。』
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