アメリカ軍の作戦と動き
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「デトロイト包囲戦」の記事における「アメリカ軍の作戦と動き」の解説
1812年前半、イギリスとの緊張関係が高まったアメリカ合衆国の大統領ジェームズ・マディソンと陸軍長官ウィリアム・ユースティスは、ミシガン準州知事ウィリアム・ハルなど多くの者から、元北西部領土の安全を守るための軍隊を結成するよう催促されていた。その地域では、イギリスの代理人や毛皮交易会社がインディアンに、アメリカ合衆国に対して立ち上がるようけしかけていた。特にデトロイトの基地を補強することが急がれた。そこの人口は800人だったが、平時の守備隊は僅か120名だった。またアッパー・カナダの西部を侵略することも提案されていた。そこは寛大な土地払い下げが行われており、アメリカ合衆国の領内から多くの移民が移っていったばかりだったので、彼等からの支援が期待できた。 マディソンとユースティスは、この作戦に同意した。マディソンはその軍隊の指揮をアメリカ独立戦争からの古参兵であるハルに任せた。ハルは当初この指名を受けることを躊躇したが、自分と同じくらい権威と経験がある士官が即座には見つからなかった。マディソンからの要請が繰り返され、最後はハルが引き受けて、アメリカ陸軍准将に任官された。 ハルの軍隊は当初、ルイス・カス、ダンカン・マッカーサー、ジェイムズ・フィンドリー各大佐が指揮するオハイオ州民兵の3個連隊で構成された。5月25日にデイトンでハルがこの軍隊の指揮を執ったとき、兵士達は装備が悪く、規律も取れておらず、また行軍させるために必要な物資の手配もできていなかった。ハルは急ぎ装備の不足を補う手配をした。6月10日、ジェイムズ・ミラー中佐のアメリカ第4歩兵連隊が加わり、アーバナから北へ行軍を始めた。ユースティスからの指示で、昔アンソニー・ウェインが築いたルートを無視し、オハイオ州北西部のブラック湿地を横切ってデトロイトに向かう新しいルートを造った。6月26日、ユースティスからの6月18日付け手紙を受け取った。その内容は戦争が避けられない情勢にあると警告し、「できる限り早く」デトロイトを確保することを督促していた。ハルは部隊を急がせた。辛い行軍で疲れている荷車を引く馬の負担を軽くするために、土木工作用の道具、医薬品、士官の手荷物と文書類、病気になった兵士と軍楽隊を、モーミー川河口から貨物船カヤホガに載せて、エリー湖を渡って運ばせることとした。 ユースティスはその6月18日付け手紙を、特使を使って送らせた。アメリカ合衆国議会はその日遅くに宣戦布告を行うことを承認したが、ユースティスはその重要な第二の報せを普通便でハルに送った。6月28日、オハイオ州クリーブランドの郵便局長は、急行騎手を雇ってこの手紙をハルの元に届けるよう急がせたが、それでも届いたのは7月2日になってからだった。ワシントンD.C.のイギリス大使はアメリカの宣戦布告の報せを急ぎイギリスとカナダに送り、カナダの軍隊指揮官は直ぐに全基地に戦争状態になったことを知らせた。7月2日、何も知らないカヤホガが、デトロイト川河口にあるアマーストバーグのイギリス軍基地近くで、植民地海兵隊のカナダ人が乗り込んだ武装ブリッグ艦ジェネラル・ハンターに捕獲された。 ハルの軍隊は7月5日にデトロイトに到着した、ここでミシガン民兵隊分遣隊の補強を受けた。その部隊にはハルが1805年に設立していたミシガン・リージョナリー軍団の140名が含まれていた。アメリカ軍は物資、特に食料が不足していた。デトロイトには石鹸とウィスキーしか無かった。それでもユースティスはハルにアマーストバーグ攻撃を急がせていた。その砦は主にイギリス第41連隊の正規兵300名と、400名のインディアンおよび幾らかの民兵が守っていた。基地の指揮官はセントジョージ大佐であり、後に第41連隊のヘンリー・プロクター大佐と交替した。ハルは乗り気になっていなかったが、ユースティスに「イギリス軍が水域とインディアンを支配している」と書き送り、その軍隊は7月12日に川を渡ってカナダに入った。カナダ人にアメリカ軍に加わるか支援するよう誘うつもりで、幾つかの宣言も発行していた。その騎兵部隊の幾らかがテムズ川を遡り、モラビアタウンまで襲撃した。この動きで地元民兵の多くはハルの侵略に抵抗する気を無くしていたが、地元住人はアメリカ合衆国から移ってきたばかりの者であっても積極的にハルを支援しようとする者は少なかった。 カナード川沿いのイギリス軍基地と何度か小競り合いを行い、決着が付かなかった後で、ハルは砲兵隊が居なければイギリス軍の砦を攻撃できないと判断した。大砲の台車が腐り、修理を要していたので砲兵隊を前線に連れてきていなかった。ハル軍は撤退した。ハルの部下の士官数人はこの撤退に同意できず、密かにハルを指揮官職から外す相談をしていた。ハルは軍隊の指揮を執って以来、民兵隊の隊長達との喧嘩が続いており、これでは戦場でも度々招集した作戦会議でも彼等の支持を得られないと感じていた。
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アメリカ軍の作戦と動き
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「シャトーゲーの戦い」の記事における「アメリカ軍の作戦と動き」の解説
1813年遅く、アメリカ合衆国陸軍長官ジョン・アームストロングがモントリオールを占領し、ひいてはアッパー・カナダ全体の確保に繋げようという作戦を立てた。ニューヨーク州サケット港から発進する部隊とシャンプレーン湖のプラッツバーグから発進する部隊がモントリオール市の手前で合流し攻撃を掛ける考えであった。 シャンプレーン湖のアメリカ軍は、7月4日に着任したウエイド・ハンプトン少将が指揮を執った。ハンプトンはこの作戦について幾つかの懸念を抱いていた。バーモント州バーリントンに基地を置くハンプトン軍は訓練が行き届いて居らず、部下の士官も訓練や経験が足りなかった。前進基地であるプラッツバーグは、イギリス海軍が湖を支配しているために、物資の補給が困難であった。最後に、南部の裕福なプランテーション所有者であるハンプトンは、サケット港から師団を率いて発進するジェイムズ・ウィルキンソン将軍を軽蔑していた。ハンプトンは最初ウィルキンソンとの協働作戦を拒否したが、アームストロング自身が作戦指揮を執るとのことだったので、最後は連合遠征隊への参加を説得された。 9月19日、ハンプトン軍は水上をバーリントンからプラッツバーグに移動し、シャンプレーン湖から北への直通路にあるオーデルタウン方面に偵察隊を派遣した。この地域のイギリス軍はかなりの戦力があると判断したハンプトンは、西のシャトーゲー川沿いにあるフォー・コーナーズの町に向かうことにした。 ウィルキンソンの遠征隊が発進準備を終えていなかったので、ハンプトンはそこに10月18日まで留まった。ハンプトンは、遅れによって物資を使い果たし、イギリス軍には十分な戦力を集める時間を与えてしまうことを心配していた。アームストロングからウィルキンソン軍が「概ね」発進準備ができたと連絡が入り、ハンプトン軍はシャトーゲー川を下り始めた。ここで1,400名のニューヨーク州民兵旅団が国境を越えてカナダに侵入することを拒んだので、進軍したのは正規兵2個旅団と200名の騎兵および10門の野砲であった。
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