最後の探検
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「ジョン・フランクリン」の記事における「最後の探検」の解説
詳細は「フランクリン遠征」を参照 フランクリンの最後の北極遠征によって、北極沿岸の調査は未踏の海岸線を500キロメートル足らず残すのみとなっていた。いよいよ北西航路を完成するため十分な装備を持った北極探検隊が送られることが決まった。フランクリンは探検隊の指揮官を熱望し、1845年2月7日に拝命。同年5月19日、軍艦HMSエレバス・軍艦HMSテラーで出発した。2隻は頑丈な作りで、快適な船員生活のためスチーム暖房が備えられ、大量の読み物や学習資料、3年分相当の保存食料が支給されていた。この保存食には伝統的な保存方法によるものと缶詰とがあったが、後者については特価販売業者であるステファン・ゴールドナーから供給された。不幸なことに、ゴールドナーが本件を受注したのは航海の僅か数ヶ月前のことだったため、彼の優れた「特許製法」にも関わらず、何千個もの缶詰を準備する際の時間不足により内側のはんだ付けが雑になり、はんだに含まれる鉛が内容物に溶け込むことになった。さらに、この缶詰に肉を納入した業者が実は悪徳業者で、納入したうちの1000個以上の缶は、腐った肉やオガくず、小石などを詰めて目方をごまかしたものであり[要出典]、食料としては全く役に立たない代物であった。このため、実際に使える食料は見た目よりも遥かに少なく、食べられても鉛が溶け込んだものが多かったことが後に分かっている。 乗組員の殆どはイギリス人であり、多くはイングランド北部出身だった。少数のアイルランド人とスコットランド人も含まれていた。彼らは海軍本部により直々に選抜され、高給が与えられた。
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