ヨーロッパ人による初期の探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/28 00:04 UTC 版)
「太平洋岸北西部」の記事における「ヨーロッパ人による初期の探検」の解説
イギリス船の船長で元は私掠船に乗っていたフランシス・ドレークが1579年にオレゴンの海岸沖を航行した。フアン・デ・フカというスペインに雇われたギリシャ人の船長が、1592年頃にファンデフカ海峡を発見した可能性があるが、実際に発見したのかどうかは長い間疑問のままである。彼は太平洋岸に開いた大きな入り江からアメリカ大陸北方の海に達して北西航路を発見したと主張したが、このような海は現実には存在しないため彼の功績は疑わしい。しかし、後世になってオリンピック半島とバンクーバー島の間の短い海峡はフアン・デ・フカに因んで名づけられた。1740年代の初期に、ロシア帝国がデンマーク人のヴィトゥス・ベーリングをこの地域に送り込んだ。1700年代遅くまでにまた19世紀に入って、ロシアの開拓者が太平洋岸に幾つかの基地と地域社会を建設し、最終的にカリフォルニア州のフォートロスまで到達した。 1774年、ヌエバ・エスパーニャの副王がフアン・ペレスをサンチアゴ号で太平洋岸北西部に送り出した。ペレスは1774年7月18日にクイーンシャーロット諸島に上陸した。ペレスが到達した北限は北緯54度40分であった。この後の1775年、ブルーノ・デ・エセタの指揮でフアン・ペレスとフアン・フランシスコ・デ・ラ・ボデガ・イ・クアドラを士官とした別のスペイン人遠征隊が続いて、1775年7月14日にオリンピック半島のキノールト河口付近に上陸した。壊血病に罹ったエセタはメキシコに帰還した。1775年8月17日、帰途にあったエセタはコロンビア川の河口を見つけたが、それが川なのか海峡なのか見分けが付かなかった。船で中に入ってみようとしたが早い潮流のために失敗した。そこをバヒア・デ・ラ・アスンシオンと名づけた。エセタが南に行く一方で、クアドラは遠征隊の第2船ソノラ号で北への旅を続けた。クアドラは帰路に着く前に北緯59度まで達した。 1776年イギリスのジェームズ・クック船長がバンクーバー島のヌートカ湾を訪れ、さらにアラスカのプリンス・ウィリアム湾まで航海した。1779年、スペインの3回目の遠征隊が、プリンケサ号に乗ったイグナシオ・デ・オルテガの指揮で、またクアドラをファヴォリテ号の船長として、メキシコからアラスカの海岸まで航行し、この時は北緯61度まで達した。スペインは他にも1788年と1789年の2回、どちらもエステバン・ホセ・マルチネスとゴンザロ・ロペス・デ・アロの指揮で太平洋岸北西部を航行した。この後の方の遠征の時に、アメリカ人のロバート・グレイ船長とヌートカ湾近くで出会った。ヌートカ湾に入ったところで、スペイン隊はウィリアム・ダグラスとその船イフィゲニア号を発見した。この後に起こったのがいわゆるヌートカ事件であり、ヌートカ協定として知られる合意で解決した。1790年、スペインはフランシスコ・デ・エリザの指揮でヌートカ湾に3隻の船を派遣した。エリザはヌートカに基地を建設した後で、幾つかの探検隊を送った。サルバドール・フィダルゴは北のアラスカ海岸へ向かった。マニュエル・クインパーはゴンザロ・ロペス・デ・アロを水先案内人として、ファンデフカ海峡を探索し、途中でサンフアン諸島とアドミラルティ入江を発見した。フランシスコ・デ・エリザ自身はサンカルロス号を駆ってファンデフカ海峡に入った。ポート・ディスカバリーの基地からサンフアン諸島、ハロー海峡、ロザリオ海峡およびベリンガム湾を探索した。ジョージア海峡を発見する過程で北のテハダ島まで探った。エリザは1791年8月にヌートカ湾に戻った。別のスペイン人探検家ハキント・カーマノが1792年5月にアランサス号でヌートカ湾を航海した。そこでカーマノはスペイン開拓地を指揮していたクアドラと出会った。クアドラがカーマノを北へ派遣し、今日アラスカ・ペンハンドルと呼ばれる地域を探検させた。カーマノの地図を含み様々のスペイン人の手になる地図が1792年にジョージ・バンクーバーに手渡され、スペインとイギリスは共同で複雑な海岸線の地図を作った。 ジョージ・バンクーバーはイギリスのために地図を作成した。その範囲はピュージェット湾の湾や入江、ジョージア海峡、ジョンストン海峡、クィーンシャーロット海峡およびブリティッシュコロンビア州の海岸線やアラスカ・ペンハンドルの海岸線にまで及んだ。スペインの最後の探検隊は、ディオニシオ・アルカラ・ガリアーノとカエンターノ・バルデスの指揮で、1792年6月21日にジョージア海峡でバンクーバーと会った。バンクーバーはピュージェット湾を探検したばかりだった。スペイン探検隊はアドミラルティ入江とまだ探検していないその南部の地域について知ったが、北へ向かうことにした。スペイン隊はバンクーバーに会う少し前にフレーザー川を発見し中に入っていた。ガリアーノ、バルデスおよびバンクーバーは地図を交換し、共同作業を行うことに合意して北に向かい共に海岸線の地図を作った。ジョンストン海峡を通過し、またヌートカ湾に戻った。この結果ヌートカ湾を出発したスペインの探検隊は、ヨーロッパ人で初めてバンクーバー島を一周したことになった。バンクーバー自身はまずヌートカに行かずにフアンデフカ海峡に入っていたので、バンクーバー島を一周したことにはならなかった。 1786年、フランス人のジャン・フランソア・ラ・ペルーズがヌートカ湾を訪れた後にクィーンシャーロット海峡まで航行したが、ラ・ペルーズとその部下および航海日誌がオーストラリア近くで難破したときに失われ、この地域に対するフランスの領有権主張の可能性が消えた。ジェイムズ・バークレー船長もオーストリア帝国の国旗でこの地域に訪れた。アメリカ商船のロバート・グレイ船長は海岸で交易を行い、コロンビア川の河口を発見した。
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