ヨーロッパ人による「探検」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:12 UTC 版)
「タンガニーカ湖」の記事における「ヨーロッパ人による「探検」」の解説
一方で、産業革命によって資源の供給地や工業製品の販路を求めるようになったヨーロッパ諸国が、アフリカ大陸内部を探険するようになった。タンガニーカ湖の存在を、ヨーロッパ人で初めて確認したのは、1858年にイギリス人の探検家のジョン・ハニング・スピークとリチャード・フランシス・バートンである。彼らはザンジバルから出発してナイル川の水源を探す探検を行い、タンガニーカ中央部のカゼ(現在のタボラ)に到達した。ここで2人は、北にニアンザ湖、西にウジジ湖と呼ばれる大きな湖が有ると聞いた。2人はまず西から探検を進め、1858年2月13日にウジジ湖(タンガニーカ湖)を、ヨーロッパ人として初めて「発見」した。 さらに、この湖の北にルジジ川と呼ばれる川が有ると聞いたものの、その川はタンガニーカ湖から流れ出すのではなく流れ込む川であると聞いた。これにより、2人は湖の北端まで探検に行かず、そのまま2人はカゼに戻った。バートンは体調不良により、ここで探検を中止した。一方で探検を続行したスピークは北に向かい、ニアンザ湖(ヴィクトリア湖)を「発見」した。 2人はどちらの湖をナイル源流と考えるかで対立した。帰国後スピークが王立地理学会にてヴィクトリア湖がナイルの水源であると講演したために2人は対立し、タンガニーカ湖がナイル川の源流だと考えたバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流だと考えたスピークによる大論争が勃発した。 この論争に決着をつけるべく、デイヴィッド・リヴィングストンが1866年に探検を開始し、1867年にはタンガニーカ湖畔に到達したものの体調が悪化し、1868年にはキゴマの南西7 kmに位置する湖畔のウジジの村で静養した。リヴィングストンのウジジ滞在は3年間に及び、イギリスと音信不通だったため、ニューヨーク・ヘラルド紙は救出隊としてヘンリー・モートン・スタンリーを派遣した。1871年11月10日に、両者はウジジで対面した。この時にスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」は、当時の流行語となった。それから2人は共同でタンガニーカ湖北端までの小探検を実施し、ルジジ川が現地で聞いた通り、タンガニーカ湖に流れ込む川であると確認した。 その後、再びリヴィングストンの消息が途絶えたため、これを探し出すべく、1874年にイギリスの王立地理学協会がヴァーニー・ロヴェット・カメロンを隊長とする探検隊を派遣した。しかし、途中のカゼでリヴィングストンの棺を運ぶ従者と出会ったため、カメロンは目的をこの地域の探検に切り替えてさらに西進し、タンガニーカ湖の調査にかかった。カメロンはタンガニーカ湖の南半分の800 kmに及ぶ湖岸線を調査し、タンガニーカ湖西部中央から流れ出るルクガ川を「発見」した。カメロンが西へ向かった後、1876年にスタンリーがタンガニーカ湖に到達して湖を周航し、タンガニーカ湖の地理をほぼ明らかにした。スタンリーはその後、ルクガ川からルアラバ川を通ってコンゴ川を海岸まで下り、これによってタンガニーカ湖がコンゴ川水系に属すること、および、コンゴ川の集水域の大部分が判明した。
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