ヨーロッパ人との接触
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ヤーガン族は、フェルディナンド・マゼラン、チャールズ・ダーウィン、フランシス・ドレーク、ジェームズ・クックやジェームズ・ウェッデル(英語版)、ジュリアス・ポッパー(英語版)ら、出会った人々に強い印象を残した。 16世紀初頭にスペインの探検家たちがティエラ・デル・フエゴ周辺の地域を訪れたが、ヨーロッパ人がこの地域とその人々に興味を持ち始めたのは19世紀になってからだった。ヨーロッパ人がこの地域に入植し始めた19世紀半ばには、ヤーガン族は3,000人と推定されていた。 イギリス人将校のロバート・フィッツロイは、1828年11月にビーグル号の船長となり、初の調査航海を続けた。1830年1月28日の夜、船のホエールボートがフエゴ人に盗まれ、一ヶ月以上の無駄な捜索の末、彼はガイドを連れ、囚人は大部分脱走し、最終的に男(ヨーク・ミンスターと改名、推定年齢26歳)と少女(フエジア・バスケットと改名、推定年齢9歳)を人質に取った。一週間後、彼は別の若者を人質に取り(ボート・メモリーに改名、推定年齢20歳)、5月11日に(14歳と推定される)ジェミー・バトンを逮捕した。なかなか上陸することが出来なかったので、「野蛮人を文明化する」と決心し、「英語、キリスト教のより明白な真実、一般的な道具の使い方」を教え、ビーグル号をイギリスに連れ帰った。ボート・メモリーは死んだが、残りは1831年の夏にロンドンの裁判所に出廷するに十分な「文明化」をされたと見なされていた。 彼らの、船が祖地に到着した時に出会った「原始的」な姿とは対照的なふるまいは、チャールズ・ダーウィンに強い印象を与えた。彼は、島での地元のフエゴ人との最初の出会いについてこう語った。 「例外なく私がこれまでに見た中で最も奇妙で興味深い光景:野蛮人と文明人の間の差がどれだけ大きいか信じられなかった。野性的な動物と家畜の間の差よりも大きい。人間には改善の大きな力があるのと同じくらい大きい。」 対照的に、彼はヤーガン族のジェミー・バトンについて、「彼の多くの優れた性質を考えてみると、彼がここで最初に出会った哀れで堕落した野蛮人と同じ人種であり、同じ性格を持っていたことは疑いもなく素晴らしいことのように思われる。」と言った。 任務は3人のフエゴ人のために設定された。1年後、ビーグル号が戻ってきたとき、乗組員はジェミーだけを発見し、彼は部族生活に戻っていた。それでも彼は、イギリス人が驚くほど原始的な方法だと考えていた方法で、彼が「イングランドに戻ることを少しも望んでいない」、彼の妻と暮らすには「幸せで満足している」と、すぐに英語を話し、彼らに保証した。このフエゴ人との出会いは、ダーウィンのその後の科学的研究に重要な影響を与えた。 ヤーガン族は西洋人によって運ばれる風土病によって滅ぼされた。イギリス人はフォークランドのケッペル島とフエゴのティエラ・デル・フエゴのウシュアイアに伝道所を設けて現地人に英語、キリスト教、農業を教えた。ヤーガン族は、19世紀前半から半ばにかけて、ヨーロッパの捕鯨業者が最もカロリーの高い資源を枯渇させ、岩で刻んだイガイに頼らざるを得なくなったために生息地が破壊された。その結果、イガイの収集と加工に必要なカロリーが大幅に減少した。19世紀後半には、ゴールドラッシュや羊の養殖ブームのために移住者の波がこの地域に押し寄せた。彼らはイギリスの財産概念を理解しておらず、かつての居住地にいた羊を「密猟」した罪で牧場主の雇った民兵に追われた。 『世界一周単独航海』でジョシュア・スローカム(英語版)は、彼がある特定の地域で停泊した場合、ヤーガン族に襲われ、あるいは殺されるかもしれないと警告されたので、鋲を彼の舟スプレー号(英語版)のデッキにまいた。 1920年代にはフォークランド諸島のケッペル島に再定住するヤーガン族もいた[要出典]。2002年のチリの国勢調査によるとチリには1,685人のヤーガン族がいたが[要出典]、2022年2月16日に最後の純血ヤーガン族女性で「アブエラ」(おばあちゃん)ことクリスティーナ・カルデロン(英語版)が亡くなり、純粋なヤーガン族は地球上からいなくなった。
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ヨーロッパ人との接触
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「ミシシッピ文化」の記事における「ヨーロッパ人との接触」の解説
詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照 「カド」および「カドのミシシッピ文化(英語版)」も参照 学者達は、エルナンド・デ・ソトが1534年から1539年に行ったアメリカ南東部の探検記録から、彼がミシシッピ文化人と接触した証拠を探した。デ・ソトは幾つかの集落を訪れており、ある場合には客として1ヶ月以上そこに滞在した(アパラチー族を参照)。出会った人々の中には暴力を振う者もいれば、比較的平和的な者もいた。インディアンの間に長く続いた不和の中で、武装したデ・ソトたちは戦力として、あるいは同盟者として使われたと思われる。例えば、パカハ族とカスキ族の間の休戦を交渉した。しかし、この探検の後期にデ・ソト一行と遭遇した部族は一行の約半分を殺し、部族の成員の多くもスペイン人に殺された。デ・ソトの年代記はミシシッピ人について書かれた最初の文書であり、これらの人々の文化的慣習について貴重な情報源となっている。 デ・ソト遠征隊の崩壊と逃亡の後、ミシシッピ人はほとんどヨーロッパの直接影響がないままにその生活様式を続けた。しかし間接的にヨーロッパ人がもたらしたものが、合衆国東部の様相を変えた。旧大陸の疫病が多くの首長制国家の社会秩序を衰弱させ、一方ある集団ではヨーロッパの馬を採用して遊牧民に変化した。多くの場所で政治構造が崩壊した。文書による証拠が残された時までに、ミシシッピ人の生活様式は決定的に変化してしまった。ある集団ではマウンドを造っていた時代に遡る口承を維持した(例えば19世紀遅くのチェロキー族)ものの、他のインディアン集団は何百マイルも移動し、その間に年長者が病気で死に、先祖たちが各地に点在するマウンドを築いたことを忘れてしまった。 19世紀までの間に、ヨーロッパ人たちはミシシッピ川流域各地でマウンドを発見したが、その地のインディアンたちがマウンドを築く習慣を持たず、マウンドを作った者たちについての正体も知らなかったことから、「マウンドビルダー」という謎の民族がいたという仮説が生まれた。その正体は海を渡ったヴァイキング・ギリシャ人・中国人などと推定されたが、中にはイスラエルの失われた10支族や未知の超古代文明によるものではないか、という説を大真面目に検討した者もいた。この怪しげな説は1894年、サイラス・トーマスが考古学的調査の結果から、マウンドビルダーはアメリカ・インディアンの祖先であることを明らかにしたことで過去のものと化した。
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ヨーロッパ人との接触
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「トンガの歴史」の記事における「ヨーロッパ人との接触」の解説
1616年、オランダのウィレム・スホーテンとヤコブ・ルメールが現トンガ最北部のニウアトプタプ島近海に到達した。このときトンガ側は双胴船で航海中であり、直接の接触はなかった。1643年にはイギリスのサミュエル・ウォリスが最大の島で現在の首都が位置するトンガタプ島を訪れる。 1773年と1773年にはイギリスの探検家ジェームズ・クックがトンガタプ島や中部のハアパイ諸島に来航する。これはクックの太平洋探検である第2航海と第3航海に相当する。ハアパイ諸島のリフカ島で友好的な応対を受けたため、フレンドリー島と命名、以後、トンガ全体がフレンドリー諸島と呼ばれるようになった。しかしクックは、封建領主を王と間違えて対応したまま2か月以上島に留まったため、礼を失したという理由で暗殺の動きがあったことが記録に残っている。1789年にはバウンティ号の反乱がハアパイ諸島付近で起こるものの、トンガ自体の歴史には関係していない。 1826年、メソジストの宣教師が訪れる。既にロンドン伝道教会の宣教師が1797年に訪れていたが、このときはキリスト教の布教に失敗していた。これは捕鯨船や脱走兵の暗躍など社会全体に混乱があったためである。 19世紀に入ると、王権にはっきりとした混乱が生じた。各諸島に拠点を持つ3者のうち、タウファアフ・トゥポウが統一王となる。王は1831年に洗礼を受け、ジョージ・トゥポウと改名した。1845年にジョージ・トゥポウ1世となる。王はキリスト教(メソジスト)を広げる聖戦という形でトンガ全体を1852年に武力で平定した。このときカトリックなどメソジスト以外の住民を改宗させている。このため、トンガ人のほとんどがメソジスト派のキリスト教徒となった。1875年にはトゥポウ1世が立憲君主となり、同時に封建的な土地所有を排した。
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