ヨーロッパ人との最初の接触と毛皮交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 23:08 UTC 版)
「ブラックフット族」の記事における「ヨーロッパ人との最初の接触と毛皮交易」の解説
ハドソン湾会社のアンソニー・ヘンデイは1754年に現在のアルバータで大規模なブラックフットの集団に出会った。ブラックフットはルイス・クラーク探検隊と出会う1806年まで、カナダ人やイギリス人の交易商人と毛皮交易をしていた 。ルイスとクラークの探検隊は連邦政府のために、ルイジアナとミズーリ川上流の地図の作成に着手した。 探検隊が太平洋から戻る行程の途中、ルイスと3人の男は馬に乗った若いブラックフットの戦士の集団に遭遇した。アメリカ合衆国は全てのインディアン部族との平和を望み、また連邦政府の指導者は他のインディアン部族とうまく連合を形成するとルイスは説明した。彼らは共に野営したが、夜が明けるとルイス達が寝ている間にブラックフットが銃を盗んで逃走しようとしたことが発覚したために小競り合いが起きた。その後の争いで一人の戦士が致命的な刺し傷を負い、さらにルイスの銃弾も受け、死亡したと推定される。 その後数年間、ブラックフットの領域で活動していたマウンテンマンは敵意に曝されることになった。ルイス・クラーク探検隊のメンバーであったジョン・コルターはブラックフットの領域から命からがら逃げ帰った。1809年、コルターと彼の仲間がジェファーソン川でカヌーに乗っていたとき、馬に乗った数百人のブラックフットの戦士に川の両岸を囲まれた。コルターの仲間であったジョン・ポッツは降伏せず、殺害された。コルターは衣服を脱がされ、命がけで逃げるように強制された。彼は夜になるまで流木かビーバーが作ったダムの中でやり過ごした。彼は300マイル離れた砦まで逃げ切った。 馬と銃の普及のために伝統的な政略が変わりつつあるという状況下で、ブラックフットは当初はルパート・ランドにおいてハドソン湾会社の交易商人と取引し、近隣の部族と西洋人との接触を止めようと試みた。しかし、ハドソン湾会社の活動領域は最終的にブリティッシュコロンビア州の内陸部まで広がった。 ハドソン湾会社はブラックフットの領域の北端のノースサスカチュワンに交易所を建設し、交易を促した。1830年代、ロッキー山脈とサスカチュワン地域はハドソン湾会社にとって最も利益が多く、ロッキーマウンテンハウスは最も繁盛した交易所であった。交易所は主にピーガン族との取引に使われた。他のブラックフットは、フォート・エドモントンのような交易所でペミカンやバッファローの毛皮などの取引をしていた。 一方で、1822年にアメリカ毛皮会社はミズーリ川上流域に初めてブラックフットの許可を受けずに進入した。これにより、平和的な交易が始まった1830年まで緊張や争いがもたらされた。続いて1831年にブラックフットの領域で初めてのアメリカの交易所となったフォート・ピーガンが、1833年にはフォート・マッケンジーが開設された。アメリカ人はハドソン湾会社よりもバッファローの毛皮に強く興味を持ち、良い交易の条件を提示し、さらに多くの取引が行われるようになった。ハドソン湾会社は1832年にボウ川の近くにボウ砦を建設したが、成功しなかった。 1833年、ドイツ人の探検家マクシミリアン・ツー・ヴィート=ノイヴィートとスイス人のパートナーカール・ボドマーはブラックフットと共に数ヶ月を過ごし、彼らの文化を感じ取った。ボドマーは彼らの社会を絵画で表現した。 ヨーロッパ人との接触によりブラックフットにコレラや天然痘といった伝染病が広がった。感染症によって6,000人のブラックフットが死亡し、グレートプレーンズでの彼らの支配は終わりを告げた。すでに41年前にエドワード・ジェンナーが種痘を開発していたため、ハドソン湾会社は社員には感染が広がらなかった。
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